SUNK THE "YAMATO" 1945

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2015/04/07 「SUNK THE "YAMATO" 1945」 分類: 戦記
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戦艦大和沈没から今日で丁度70年目です。

戦艦大和



昭和20(1945)年3月末期からはじまったアメリカ海軍と陸軍による沖縄本島上陸作戦により、沖縄本島は苛烈な戦場と化した。県民は半ば軍人の盾になるかのような扱いと共に戦地に駆り出され、夥しい血が流されることとなり、海でも特攻機による攻撃が続き、沖縄は殺戮と狂気の様相を見せていた。

そんな中、本土でも沖縄支援の為に、呉から戦艦「大和」、二等巡洋艦「矢矧」、一等駆逐艦「霞」、「磯風」、「濱風」、「雪風」、「初霜」、「朝霜」、「涼月」、「冬月」が出撃した。片道分だけの燃料を積んで、沖縄の嘉手納に向かい、そこで乗り上げて砲台となるという最早作戦とは呼べない実質的な"特攻"であり"自殺"という命令を受けた出撃だった。前年のレイテでの敗北と姉妹艦「武蔵」が、航空機の爆撃に屈した事から、「遂に自分達も・・・」という思いも溢れていた。


最後の実働部隊旗艦となった大和

大和級3隻の最期を看取る形となった雪風


艦隊司令の伊藤整一中将に限らず、多くの当事者達が無謀極まりない突撃に猛反対していた。しかし、天皇の言葉を傘にした「聯合艦隊にもう艦はないのか?」という言葉を持ち出され、軍人である以上、無謀な命令であっても従わざるを得ず、艦首を沖縄に向け、最後の実働艦隊は、餞別である往路分の燃料を貰って出撃する。死出の出撃である事を伝えられた後も、乗組員達は最後の職務だと自らに言い聞かせ、配置に付いた。

戦艦大和は沖縄への"死出"に向かった


4月6日に徳山沖を発ち、豊後水道と日向灘を抜けて大隅海峡にさしかかった大和だったが、既に米潜水艦や偵察機からも捕捉されており、翌7日鹿屋基地から発進した零戦の護衛が去った後、午前9時近くに米機動部隊のスプルーアンス中将は、北進してきたミッチャー中将に「貴官の判断に任せる」と通信を送り、ミッチャーは多くの艦載機を出撃させ、大和攻撃に向かわせた。

対空火器を張り巡らせた大和


9時に偵察に来たカタリナ機に主砲を放ったものの、まったく成果を出せず、11時に機関不調の朝霜が脱落し、後に米機の攻撃によって生存者を出さぬまま沈没、そして大和の電探(レーダー)も飛来する米機の群れをキャッチし、12時38分、多数の艦載機群の急降下と共に戦闘は開始された。

46センチ砲は遂にその威力を見せる事は無かった


大和は低い雲で敵機を捕捉できなかった


敵第一波の攻撃で主砲が使えず、低い雲の間から縫って現れた敵機の攻撃は凄まじく、対空火砲と機銃が果敢に火を噴くものの、悪天候による視界不良によって大和と護衛艦艇は勝ち目の無い戦いに、更に追い詰められるような事態に追い込まれ、霞と濱風が轟沈、矢矧、磯風も損傷し、大和も艦首部に魚雷、後部艦橋付近に爆弾を浴び、大和級戦艦の弱点である副砲付近の防御力の弱さを突かれ、延焼を最後まで消すことが出来なかった。

魚雷と爆弾の猛攻に喘ぐ大和


午後1時22分、第二波攻撃が開始され、33分に3本、41分に2本が大和左舷に命中、これによって大和は大きく傾斜し、注排水によって艦の平衡を保ったものの、レイテでの武蔵での戦訓や、一カ所を集中爆撃する事によって浸水を増加、転覆させる目論見のような攻撃により、大和は武蔵以上に間断の無い攻撃によって傾斜を増していき、午後2時7分に右舷に一本魚雷命中、12分過ぎには既に注排水量が限界を迎え、速力は12ノットに低下、更に爆撃によって機銃や対空砲の損害も甚大で、犠牲者の数は増す一方となっていた。この間にも大和以外の艦艇では5分に矢矧が沈没、磯風も激しく炎上していた。甲板も艦内も、爆撃で散った手脚と、海水と混じり合った血の色で悪夢のような形に彩られていった。

大きく傾斜した大和


第三波攻撃の午後2時12分には更に二本、そして17分に実質止めとなる一本が左舷に命中し、傾斜は急速に増し、午後2時20分、伊藤長官は作戦中止を伝え、長官室にこもり、「総員最上甲板(退艦)!!」の命令が出された。そして午後2時23分、日本海軍の切り札として造られたはずの超弩級戦艦大和は、本来戦うべき米戦艦と一度も交戦を果たせず、そしてその強大な力を活かすこともなく、伊藤整一中将や有賀幸作艦長をはじめ、3000名近い兵士達と共に、長崎県男女群島沖で爆発し、黒煙を上げたまま海底に果てたのである。


大和の最期を見つめる雪風

生き残ったのは「初霜」、「涼月」、「冬月」、「雪風」の4隻のみで、生存者と敗残兵を抱えたまま、佐世保へと引き返し、最後の日米海戦は終わった。負け戦が決まっていた事とは言え、やけくそに半ば等しい意味で、時代遅れの遺物と化した巨大戦艦を敵の標的にするために突っ込ませ、それに乗って駆り出された人々の犠牲で得たものは果たしてなんだったのか。それは今尚日本という国と、そこの国民の奥底に根付く狂気と愚かさ、そして「一億特攻」という言葉の元に全てが片付けられてしまう風潮への警鐘が示されているのではないだろうか。

大和の建造技術は戦後日本の繁栄の礎の一つになったが・・・


大和建造に培われた技術、それは戦後日本の復興と、造船産業世界一へと活かされることとなったが、その最期を忘れて今の日本が無かった事と、払った犠牲の代償の大きさという真実に、そうした現実もまた、日本に突きつけられている消えない問題なのである。



ちょっと前に武蔵が71年ぶりに発見され、話題となりましたが、しかし、それは喜ぶことではあっても、70年以上前に日本が犯してしまった大罪というものを改めて意味していると思えます。

それは戦争へと前のめりとなり、結局列強の流れに無理に合わせようとして自爆してしまった現実を意味しているのではとも思えます。故吉村昭の『戦艦武蔵』で描かれていた、武蔵を造る為の労力と時間、そして完成した後に辿る末路といったものは、大和も同じだったように思えます。

未だに発見されていない信濃も含め、深海で物言わぬ大和級戦艦や、海軍艦艇類は、その乗員達の犠牲を今に伝えると同時に、戦争がもたらしたものと、徒労感、そして過ちを色濃く示しているように思えるし、今年発見された武蔵にしても、「70年前の過ちを思い返し、振り返って欲しい」と伝えているような気がします。現在の日本の現状からも・・・・・・・。

雪風は戦後、中国へ引き渡された


70年目を迎えた海底の大和も武蔵と、更に舵輪と錨のみとなった雪風も同じ気持ちだと思うのですが、果たしてそうした思いを戦後70年目の日本人は活かせるのでしょうか。

大日本帝國海軍超弩級戦艦『大和』
全長:263メートル
全幅:38・9メートル
重量:69100トン
機関出力:150000馬力
速力:27ノット
武装:
45口径46センチ砲×9
55口径15・5センチ砲×6
40口径12・7センチ砲×24
25ミリ三連装機銃×156
25ミリ機銃×6
13ミリ機銃×8
搭載機×7

昭和10(1935)年、『A140型』で設計
昭和12(1937)年、呉工廠で建造開始
昭和⒖(1940)年8月、「大和」と命名
昭和16(1941)年10月、公試運転開始 12月16日、連合艦隊編入
昭和17(1942)年5月29日、ミッドウェー作戦に参加
昭和18(1943)年12月25日、米潜水艦の攻撃に被雷
昭和19(1944)年6月19日、あ号作戦で、マリアナ沖海戦に参加 10月22日、捷号作戦で、レイテ沖海戦参加 25日、フィリピン、サマール沖で米護衛空母群に砲撃するも、レイテ湾直前で引き返す
昭和20(1945)年3月19日、呉空襲 4月6日、前日の連合艦隊司令部より天一号(菊水)作戦の命令が下り、沖縄へ向かう 日、午後2時23分、米艦載機群の攻撃により、魚雷11本、爆弾6発が命中し、爆発沈没 8月31日、除籍

大日本帝國海軍甲型駆逐艦陽炎型『雪風』(最終時)

全長:118m
全幅:10・4m
排水量:2000t
機関出力:52000馬力
速力:35ノット
武装
:連装式50口径12・7センチ砲 2基
:4連装61センチ魚雷発射管 3基
:三連式25ミリ機銃 3基
:連装式25ミリ機銃 3基
:単装式25ミリ機銃 6基
(資料によって異なる)

昭和⒖(1940)年1月20日 佐世保工廠で竣工
昭和16(1941)年12月5日 レガスピー攻略作戦支援
昭和17(1942)年10月26日 南太平洋海戦参加 11月12日 第三次ソロモン海戦参加
昭和18(1943)年7月12日 コロンバンガラ島沖海戦参加
昭和19(1944)年6月19日 マリアナ沖海戦参加 10月22日 レイテ沖海戦参加
昭和20(1945)年4月7日 大和沖縄特攻作戦に参加し、生還 10月5日 除籍 以降復員船となる
昭和22(1947)年7月6日 復員任務終了後、中国に賠償艦として引き渡され、『丹陽』(タンヤン)と命名される
昭和42(1967)年台湾沖で座礁沈没、後、解体され、錨と舵輪が日本へ返還される。

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634 さんのコメント (2015/04/07) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
前に聞いた元軍医のお祖父様の体験ですか・・・。

生き残った人達の話を聞く機会ばどんどん無くなってきてますね。

大和の生存者達で造られた「大和会」も、今では1人だけになった
そうです・・・・・・。
HARIKYU さんのコメント (2015/04/07) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]

私の母方の叔父は軍医として大和に乗り込んでいて被弾、台湾の船に助けられて九死に一生を得たそうです。
身体のあちこちに火傷の跡があって、今となっては生きているうちにいろいろ話を聞いておきたかったなぁ、と。


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