ロディ・パイパー: 総合

人:俳優 関連作品数ランク11,687位(全体数22,098中) / 関連作品数2 / 偏差値46.26)11,686位 <= =>11,688位

読み仮名(平仮名)ろでぃばいぱー
英語名Roddy Piper
生年月日1954/04/17
没年月日2015/07/30
出生国カナダ
出身地サスカチュワン州 サスカトゥーン
職業俳優
経歴/説明本名ロベリック・ジョージ・トゥーブ(Roderick George Toombs)

ニックネームはホット・ロッド(Hot Rod)、日本での異名は「狂乱のスコッチ」。スコットランド系カナダ人だが、ギミック上の出身地はスコットランドのグラスゴーとされており、入場曲はバグパイプで演奏され、試合以外の場面では常にキルトスカートを纏っていた。体格的には決して恵まれてはいないが、卓越した試合センスとマイクパフォーマンスの巧みさで、1980年代のアメリカン・プロレスを代表するトップスターとなった。

ジュニアハイスクール時代はボクシングとアマチュアレスリングで活躍し、本人によれば15歳でプロレスラーとしてのキャリアをスタート、デビュー戦の相手だったラリー・ヘニングには秒殺されたという。

AWAのカナダでの拠点であったウィニペグにてジョブ・ボーイとしてキャリアを積み、1970年代前半よりアメリカのNWA圏に進出。1975年にはテキサスのダラス地区にて、マッドドッグ・バション、キム・ドク、スーパースター・ビリー・グラハムなどと対戦した

1976年にロサンゼルス地区のNWAハリウッド・レスリングに参戦し、ラフファイトを主体とするヒールのスコッチ・ギミックを確立。フラッグシップ・タイトルのアメリカス・ヘビー級王座を巡るチャボ・ゲレロとの抗争で注目を浴びる。同年12月12日にはサンバーナーディーノにて、ミル・マスカラスとのシングルマッチも行われた。

1977年8月、新日本プロレスに初来日。入場時にはバグパイプを吹き、外国人エース格のスタン・ハンセンやブラックジャック・マリガンのパートナーに起用されてメインイベントにも出場、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦している。その後、覆面レスラーのマスクド・カナディアン(The Masked Canadian)に一時的に変身し、1978年1月27日にロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにて、その4日前にニューヨークでホセ・エストラーダを破りWWFジュニアヘビー級王者となった藤波辰巳の初防衛戦の挑戦者を務めた。同年3月にはマスクド・カナディアンとして新日本プロレスに再来日、シリーズ開幕戦である3月3日の高崎市大会にて、藤波の凱旋帰国試合の相手も務めている。翌1979年1月11日には本拠地のロサンゼルスでも、藤波のWWFジュニアヘビー級王座に素顔で再挑戦した。

その間も、アメリカでは西海岸を活動拠点に、1978年6月24日にはサンフランシスコ地区にてムーンドッグ・ロニー・メインからUSヘビー級王座を奪取。その後はオレゴンおよびワシントン地区のパシフィック・ノースウエスト・レスリングで活動、リック・マーテルと組んでザ・シープハーダーズとNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を争い、シングルではバディ・ローズやスタン・スタージャックと抗争した。

1980年10月より、ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングに登場。11月1日にトーナメントの決勝にてポール・ジョーンズを破り、空位となっていたTV王座を獲得。翌1981年1月27日にはリック・フレアーからNWA・US王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を奪取、保持していたTV王座を返上してフレアーにプレゼントするなどの挑発を行い、以降もフレアーとは抗争を繰り広げ、両者は生涯の宿敵・親友ともなった。ミッドアトランティックではグレッグ・バレンタイン、リッキー・スティムボート、ジャック・ブリスコ、ワフー・マクダニエルなどのトップスターとも抗争を展開、同地区認定のタイトルを再三獲得した。

1983年5月には全日本プロレスへの参戦で5年ぶりの来日が実現。6月3日に旭川市総合体育館にて、同じくミッドアトランティックでの抗争相手だったディック・スレーターと組み、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している。来日中は馬場や鶴田、天龍源一郎とのシングルマッチも組まれた。

1980年代初頭にはジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにてカラー・コメンテーターやインタビュアーも兼任、トークの才能を発揮した。ジョージアではトミー・リッチやダスティ・ローデスと抗争し、ザ・グレート・カブキとも共闘していたが、後にベビーフェイスのポジションに回り、アブドーラ・ザ・ブッチャー、マスクド・スーパースター、イワン・コロフらと対戦した。

1984年、前年に死去したグラン・ウィザードに代わるヒールのマネージャーとしてWWFにスカウトされ、ポール・オーンドーフとデビッド・シュルツを担当するが、ほどなくしてレスラーとして試合にも出場するようになる。パイパーズ・ピット(Piper's Pit)なるインタビューコーナーも受け持ち、ジミー・スヌーカとの抗争で一気にブレイク。オーンドーフ&カウボーイ・ボブ・オートンと悪のユニットを結成し、WWF世界ヘビー級王者のハルク・ホーガンをはじめ、スヌーカ、ティト・サンタナ、ロッキー・ジョンソン、トニー・アトラス、イワン・プトスキー、ジャンクヤード・ドッグ、さらにはアンドレ・ザ・ジャイアントやブルーノ・サンマルチノなどのスーパースターを敵に回して、トップ・ヒールとしての地位を築き上げた。

1985年3月31日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたレッスルマニアの記念すべき第1回大会では、パートナーにオーンドーフ、セコンドにオートンを従え、映画『ロッキー3』に出演したアクション俳優ミスター・Tとホーガンのチームとメインイベントで対戦。翌1986年4月7日のレッスルマニア2ではミスター・Tとのボクシング・マッチが行われた。

ヒールでありながら、そのキャラクターが徐々に観客の支持を集めるようになり、1986年下期からはベビーフェイス化していき、同じく「フラワー・ショップ」なるインタビューコーナーを持っていたアドリアン・アドニスとの確執も発生。同年8月にフラワー・ショップに殴り込みをかけた際、盟友だったカウボーイ・ボブ・オートンがアドニス側についたことでオートンと仲間割れし、本格的にベビーフェイスに転向する。以降、フラワー・ショップに再三乱入し、アドニス、オートン、マネージャーのジミー・ハートと舌戦を繰り広げた。アドニスとの抗争を開始しつつ、パイパーズ・ピットにてポール・オーンドーフやボビー・ヒーナンとも舌戦を展開し、オーンドーフと抗争中だった旧敵ホーガンのタッグ・パートナーとしても活躍した。

1987年3月29日のレッスルマニアIIIでのアドニス戦を最後に一時リングから離れ、映画俳優としての活動を開始、1988年公開の『ゼイリブ』では主演を務めた。翌1989年5月よりWWFに復帰し、テッド・デビアス、リック・ルード、バッドニュース・ブラウン、ランディ・サベージらと抗争。その後、再び現役を離れ、実況席でカラー・コメンテーターとして活躍していたが、1991年下期、NWA時代のライバルだったリック・フレアーのWWF移籍に伴いリングに復帰。フレアーとの抗争を各地で繰り広げた。1992年1月19日にはザ・マウンティーを破ってインターコンチネンタル・ヘビー級王座を獲得、同年4月5日のレッスルマニアVIIIにてブレット・ハートにタイトルを明け渡したものの、WWFでの初戴冠を果たした。
その後も単発的にWWFに出場し、1994年にはジェリー・ローラー、1996年にはゴールダストとの抗争が行われた。

1996年10月、WCWに移籍。当時nWoを率いていた "ハリウッド" ハルク・ホーガンとの抗争を再開させ、同年12月29日のスターケード、翌1997年2月23日のSuperBrawlにおいて、ホーガンとシングルマッチを行った。nWoと敵対していた旧敵リック・フレアーともタッグを組み、1997年6月15日のグレート・アメリカン・バッシュではケビン・ナッシュ&スコット・ホールが保持していたWCW世界タッグ王座に挑戦。1998年9月13日のFall Brawlではダイヤモンド・ダラス・ペイジ&ザ・ウォリアーと「チームWCW」を結成し、ハルク・ホーガン&ブレット・ハート&スティービー・レイの「nWoハリウッド」、ケビン・ナッシュ&スティング&レックス・ルガーの「nWoウルフパック」とウォー・ゲーム形式のケージ・マッチで対戦。1999年2月8日にはブレット・ハートを破り、NWAミッドアトランティック時代から数えて16年ぶりにWCW・USヘビー級王座を獲得した。

1999年12月13日のカート・ヘニング戦を最後にWCWを離脱。2001年のWCW崩壊後は、元WCW勢が主宰していたXWFに参加したが、レスラーとしてはセミリタイア状態となった。

2003年にWWEでハルク・ホーガンとビンス・マクマホンが抗争を開始すると、双方に遺恨を持つ人物としてインタビューに登場、3月30日開催のレッスルマニア19でのホーガンvsマクマホン戦に乱入してWWEに復帰。パイパーズ・ピットを再開し、ショーン・オヘアのマネージャーを務めたが、6月24日に薬物使用で解雇される。

その後はTNA参戦を経て、2005年にWWE殿堂(インダクターはリック・フレアー)に迎えられてからはレジェンドとしてWWEに度々スポット出場し、パイパーズ・ピットを開催した[4]。2005年4月3日のレッスルマニア21では、パイパーズ・ピットのゲストにストーンコールド・スティーブ・オースチンを招待、新旧のWWEを代表する饒舌家同士の舌戦を繰り広げた後、カリートが乱入して両者を挑発したが、パイパーとオースチンに迎撃され退散した]。その後、両者は祝杯をあげるが、最後はお約束としてパイパーがオースチンのスタナーをもらい受けた]。2006年11月5日のサイバー・サンデーでは、インターネット投票によりフレアーのパートナーに選出され世界タッグ王座を獲得。これが生涯初の「世界王座」の獲得となった。

その直後に行われた選手活動のための健康診断でホジキンリンパ腫が発見され、11月27日のWWE.com上でファンにも報告されたが、順調に体調を回復。翌2007年2月12日のRAWにて久々にファンの前に登場し、ウマガの急襲を受けるというアングルも見られた。

以降もWWEへのスポット出場を続け、2008年10月26日のサイバー・サンデーでは、サンティーノ・マレラのIC王座に挑戦したホンキー・トンク・マンをゴールダストと共に援護射撃。2009年にはクリス・ジェリコとの遺恨が勃発、旧友リッキー・スティムボート&ジミー・スヌーカとレジェンド軍を結成し、4月5日のレッスルマニア25にてジェリコとの1対3のハンディキャップ・エリミネーション・マッチが行われた。同年11月16日にマディソン・スクエア・ガーデンにて行われたRAWにゲストホストとして登場[4]、7年ぶりにミスター・マクマホンと絡み、全盛期に劣らぬ舌戦をみせた。その後、ランディ・オートンとのストリート・ファイト・マッチが組まれ、オートンのパントキックを受けそうになるも、間一髪のところでコフィ・キングストンに救出された。

2010年3月27日には、レッスルマニア第1回大会の成功に共に貢献したウェンディ・リヒターのWWE殿堂入りのインダクターを務めた[39]。同年11月15日に行われたRAWの "Old School Edition" にもレジェンドの一人として出演し、ジョン・シナにWWE王座を獲得できなかった自身の想いや、過去にWWE王者となったレジェンド達の権威を説いた。

2015年7月30日、肺血栓塞栓症に起因する心臓発作のため[41]、カリフォルニア州ハリウッドの自宅にて死去。61歳没。
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最終変更者/日時 634 / 2016/12/12
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統計値[関連(出演)作品]
日本良い52.552120

関連作品 (開始日順: ↓の区分名のリンクで並び順を評価の良い順/評価数順などに変えられます。)
11995/07/29海外映画ハードネス普通(0.00)0.0047.332アイス
21989/01/28海外映画ゼイリブ良い(1.30)13.0057.7810出演



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