ダグラス・フェアバンクス: 情報更新履歴



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2017/01/01 編集者:634 (個人履歴)
birth 1883/05/23
country US
die 1939/12/12
english Douglas Fairbanks
history 父親のヒゼキヤ・チャールズ・ウルマンは、ペンシルベニア州でユダヤ人の家庭に生まれ、後に弁護士になった。

10代の頃からデンバーのアマチュア劇団の舞台に立つようになる。この間、コロラドの鉱山学校に通っていた。1900年代初めにニューヨークに移り、ウォール街でハードウェアストアの店員や証券会社の事務員として働いていた。ハーバード大学にも通っていたが中退し、ヨーロッパへ渡った。その後帰国し、演劇に興味を持ち始め、1902年にブロードウェイでデビュー。その後若手スターとして注目された。

1907年に裕福な実業家の娘と結婚、1909年に息子のダグラス(後のダグラス・フェアバンクスJr.)が生まれる。

1915年にトライアングル・フィルム・コーポレーション傘下で{D・W・グリフィス}のファイン・アーツ社と週給5000ドルで契約し、映画界に入る。同年公開の『快男子』(原題:The Lamb、監督:クリスティ・キャバンヌ、脚本:D・W・グリフィス)で映画デビュー。作品は大ヒットを記録した。翌1916年公開のグリフィス監督の名作『イントレランス』には「古代バビロン篇」に端役で出演した。

ダグラスは一躍人気俳優となり、1916年に映画製作会社フェアバンクス・ピクチャーズを設立。1919年にはグリフィス、{チャールズ・チャップリン}、{メアリー・ピックフォード}と共にユナイテッド・アーティスツ社を設立した。その後『怪傑ゾロ』や『ロビン・フッド』などの冒険活劇映画でヒーロー役を演じ、絶大な人気を得た。ほとんどの作品のアクションシーンをスタントなしで務めており、そのアクロバティックなアクションも人気だった。

1916年に女優のメアリー・ピックフォードとあるパーティで出会い、双方に配偶者がいたが交際するようになる。ダグラスは1919年に妻と離婚、翌1920年にピックフォードも離婚し、同年に2人は結婚した。二人は1936年に離婚しており、ダグラスはその後女優・モデルのシルヴィア・アシュリーと再婚した。

1927年に映画芸術科学アカデミーの初代会長に就任し、名実共にアメリカ映画界のトップに君臨した。1931年には映画監督として『八十日間世界一周』を原作とした『ダグラスの世界一周』(原題:Around the World in 80 Minutes with Douglas Fairbanks)をヴィクター・フレミングと共に監督。なお、この頃ロサンゼルスオリンピックの金メダリストの西竹一男爵と親交があった。

しかし、その後は人気も低迷し、1934年の『ドン・ファン』を最後に引退。以後は映画プロデューサーとして息子のフェアバンクスJr.主演の作品を製作していたが、1939年、カリフォルニア州サンタモニカにて心臓発作で死去。その功績をたたえてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、息子のフェアバンクスJr.と共に名前が刻まれている。墓はハリウッド・フォーエバー墓地にある。
job actor producer story
kana ta
main_job story
place コロラド州 デンバー
reading だぐらすふぇあばんくす
sex m
source wikipedia
title ダグラス・フェアバンクス

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