asukaの秘密の記憶箱

総閲覧回数:140,767回 / 推薦評価:47個(内 論客23人) / ブログ拍手:159
鳳凰は雌雄の二羽、鸞(らん)である。二槻(ふたつき)二神(ふたがみ)という氏姓もある。
仏教語に双神アシフィン、アソカ大王があり、これがアスカと転訛して飛鳥となったらしい。
アスカとは双神(二神)、ふたつの月宇宙のことなのだ。 『月の本』林完次
 18日17日16日15日14日13日12日11日
閲覧3 (-2)5 (+1)4 (-3)7 (+4)3 (-3)6 (-3)9 (+6)3
階位318318318318318318318318
ポイント203,062203,062203,062203,062203,062
(+2)
203,060203,060203,060
偏差値59.1959.2059.2059.2059.2059.2159.2159.22

最近閲覧されたログイン状態の論客
ルネサント / 塩キャラメル / はなまる / JONIX / むっら~ / 2621 / 伏魔の剣 / 緋室葉介 / アボンリー / 飛蝗亀軍師 / シャル / fe3 / CHIGE / tigu331 / めたこ / ねぎ麻雀 / オルタフォース / ミルナ- / canadadry / moon-moon / EDT / 十傑集 / ざくろ石 / ななみね / 夜原 / Soul Station / 永田 / カール / Catwalk
アクセス記録[推移 / PV内訳(過去1日 / 過去1週間) / 外部アクセス元 (昨日 / 過去1週間) / ログイン論客足跡]
プロフィール私書
   /   /送済
評価(一覧   /)
投票   /共:   /
ファン登録
情報
DB構築
他己紹介
17/02/25
ブログ
[書く]
リンク集
RSS購読
RSS
表示開始年月
分類


 作成日時分類記事タイトル
12012/03/26世界の物語..制限記事
22011/08/28話の話『困ってるひと』――大野更紗(おおの さらさ)..
32011/04/30世界の物語..虐待サバイバー・アーティスト、唄びと「イクラ」さん。..
42011/01/01ある私信書いた人本人専用メモ書き
52010/12/22ある私信制限記事
 反応日時来客名来客者の最近のメッセージ
12010/11/01名もなき詩人なるほど、私が20世紀少年で良いと思った少年誌的な単純なノリ..
22010/11/01名もなき詩人別に良いですよ。確かにモンスターのasukaの文章と比べてあ..
32010/09/07ライズ・バーサス読ませて頂きました。今回の評価の内容に対する俺の感想は、【よ..
42010/08/26ライズ・バーサス凄いですね。そこまで手間をかけて作品を評価するなんて。作品に..
52010/07/12堺の鉄砲職人ログインしないとコメント残せないようでしたので、管理人さんに..
その他最近のコメント
1.
2012/03/26
貴方は、現在ログイン状態ではありません。
2.
2011/08/28 「『困ってるひと』――大野更紗(おおの さらさ)」 分類: 話の話
[この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:3個



Amazon http://www.amazon.co.jp/dp/4591124762/ref=cm_sw_r_tw_dp_xBJwob1H8ZTKQ 

ポプラビーチで連載 http://www.poplarbeech.com/komatteruhito/index.html ツイッター@wsary


が面白い。(単行本すでに6月に発売されてて今さらだし。すんません)

今、もっとも注目を集める福島のド田舎「ムーミン谷(注:著者命名)」で半ば野生化しながら棲息していた「原発チルドレン」であり、

上京して上智大学のおフランス語学科でビルマの難民問題に精力的に取り組んでいたという、

些か混沌としたパーソナリティを有していた一女子がある日突然、世にも稀な奇妙な難病に罹り、

何の因果か、自らが日本の社会制度というアマゾンで遭難・難民化し、前人未到のジャングルを旅した遭難記・大冒険記。

そして彼女のパーソナリティはカオスの縁で更なる多様性と混沌へと向けて進化を遂げるのであった。

すべての旅がそうであるように(なのか?)ユニークな一女性の自己発見と、現在位置(日本社会の現実)把握の旅の記録でもあり、

即物的な人体の神秘に瞠目するアメイジングエクストリーム難病記である。

「難民」とは国境の向こうでも遠いどこかでもなく今、ここに、自らの足元にこそいた、ある日突然いつ何時、自らさえそうなりうるという発見。

「難」は常に自分が今いる足元、今、ここに揺さぶられ目覚める時を待って眠り潜在していただけなのだ。

人は誰もが『社会』というモンスターの腹の中に食われている。

ということを人は「難」にぶちあたって初めて自覚する。

「生」という「困難」だらけの険しいジャングルを道ゆく、すべての旅人たちへの一指南書。



それにしても震災前から常々思ってたけど、政治や制度を小回り利くようにして不備は整備しとかないとイザ危機が起きたとき、

偽りの凪の中で無駄に増設に増設を重ねた船みたいに、

どんな大波小波の危機も回避できないどころか、自らの鈍重さに自沈してくだけだろーがと思ってたけど正にそうなりそうな予感。

大野さんも震災前からこの本を書いていた目的の一つは、自身の特殊な不幸をひけらかすことではなく、

誤魔化しようがなく瓦壊し始めた日本社会の、綻びと亀裂の渦中に身を置いた危機感からの警鐘だったと思う。

著者が見てきた医療制度崩壊の現実は、どんなホラーよりも心胆寒からしめられる。

医療制度だけではなく、日本の中で、いつ難民となってしまうかもわからない、

自分たちの足元がどれだけ危うく脆弱な基盤で成り立っているかということを、遠い専門用語で気負うことなく仰々しい悲観でもなく、

身体的に自分の足元の範囲内から認識させたいという意図があったのではないだろうか。

この書は、今の日本社会の中で難民化し、漂流した(今もその渦中にいる)生還者の実録記なのだ。

大野さん身体張りすぎ。

でも文字通り生きたまま身体を切り裂かれる生と死の淵と、現実の最果てから生まれた言葉だからこそ、真実が宿ってるんだと思う。

しかし生きるための医療行為が、とある国の政治犯への拷問を超えるかと思われるほどシンクロするという現実の奇妙さと、

自らの人生においてその両極端の二つを経験的に繋げてしまえるのはどんな芸人も真っ青の著者の才能だと思う。

遠い発展途上国の難民、今ここにいる日本社会の中の難民、医療行為と政治犯への拷問、助けられる者と助ける者、

一見遠い溝に隔てられたそことここを繋げ、転倒し、実は表裏一体だった真実を一瞬にして裏返して見せてしまえる手技はすごいと思う。

・・・

現在は難病闘病に加え、故郷の福島で震災、ご実家が原発災害をもろにかぶるなど「難」が雪崩の如し……

そんな日本社会の「難」だらけのギリギリの道なき道を行く彼女の先人としての言葉は、真っ暗闇の道の先を勇気の光で照らすのだ。

だって肉体的、精神的、社会的死のギリギリの淵の難病闘病記の第一章のタイトルが、

「絶望は、しない」、と言い切るのだもの、そりゃこちとらが絶望してるわけにゃいかんがなってなるしかない。

でもその第一声の宣言とこの本に書かれた軽妙な言葉は、闇と絶望と最果てのドン底の底まで潜り抜けたからこそ生まれた、光照らす言葉なのだ。

これほど真剣に闘い生きてる人に対して、申し訳なくてお恥ずかしくて、簡単にホイホイ絶望なんかしてられない。

臍を咬むように思う、絶望、というと体良く体裁を作れるけど、要するに投げ出しに甘んじてる限り、

絶望という言葉さえ、その言葉は薄く軽く浅い。

でもそれは、同情と憐れみの「お涙頂戴」のカタルシスで終わらせてくれる言葉なんかより、遥かに厳しい。

知性とユーモアと根性とセイント(聖)力で、生存ギリギリの難病患者が持てる限りの武器全開にして、生きる道を切り開き、

社会というモンスターとの決闘を決意した物語であり、絶望はしない、と宣言した本であり、

そうすることで読者にも、心地良い憐憫と絶望のカタルシスに浸ることを許さず、

真正面から目を見開いて現実を見つめ、耳を開いて現実を聞き取り、足を踏ん張って現実に踏みとどまらせる本だ。

絶望を許さず、自らの生、自分が今いるところはどういう場所なのか、に真正面から向き合わせる、厳しい、けれども優しい書だ。

この本で泣くとしたら、可哀相で泣くのではない、哀しくて泣くのではない、喪失を惜しんで泣くのではない、

今のぶっとんだこの世界にある一抹の生が、奇跡のように美しくて面白くて愛しいからだ。

・・

一人一人が社会制度が、今まで無関心と惰性でみんなが作り上げてしまった、

日本社会という「モンスター」の腹の中をどのように生き抜くか、という勇気とヒントを与える体当たりの実践的社会学の書である。

困ってる時にこそ、「大丈夫、だいじょうぶだよ!」と言い掛けてくれる、日本中が稀なる難に覆われている今、だからこそ必要な書かもしれない。

剣道のように真剣に、フェンシングのように軽やかに、軽妙洒脱な文体の裏にある(真の危機の中で余裕を生み出すユーモアと知性は比例する)、

哀しみ、絶望、怒り、人の卑小さ、人の偉大さ、醜悪、美、恐怖、孤独、痛み、共闘、真剣、遊び、希望、喜び、幸せ……

「日本社会の最果て」のどん底で人が生きることをこれほど多面的に色彩豊かに美しく見せる奇跡。

これだけ特殊な経験をしていながら、出来事の特権化、特殊化、自身の偶像化、聖域化をしないのがエライと思う。

大野さんにしか体験できなかったこと、大野さんにしか切り抜けられなかった個人的な出来事であることは確かなのに、

それが誰にとっても「私自身の物語」になりうるように読ませる書き手としてすごいと思う。

こういう面白い話しや面白い人を知れると生きることが嬉しくなる。

なんていうか、大野更紗さん、生まれてくれて、生きててくれてありがとう、生きる勇気と笑いと感動をありがとう。もらってるばかりでなんか申し訳ない。

美少女難病闘病記モノが好きな人にもお勧め (抱腹絶倒難病薄幸美女…ニュータイプである)。

流れるのは「1リットルの涙」ではなく、「1リットルのおしり」だけど……

(変な話、こういう即物的、身体的、生理的、現実的な話しは女性の方が耐性あると思う。) 

生きるとは困ることだ、困りながらも生きることだ、人が生きるってすごいなとふつーに思えてくる本。

歩くことさえ困難な著者は、それでも杖をついてズリッと一歩ずつ、歩くことと生きることと語ることをあきらめない。

せめて歩くことくらいは困難でない私たちは、そんな著者のあきらめない歩行を追って、どんな困難な道でも、それぞれの歩幅で歩くことがきっとできると思う。

というわけでみなさん読んで下さい。

コメントする(論客のみコメント可能記事)3個

3.
2011/04/30 「虐待サバイバー・アーティスト、唄びと「イクラ」さん。」 分類: 世界の物語
[この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:17個









シンガーソングライター、イクラさんは、児童虐待サバイバー(過酷な虐待の「生存者、生き残り」)、

その過去を講演やライブで、言葉で、歌で、語り、歌い続けている人です。

(ツイッターで知りました→ @ ikurakoikura )

イクラさんを知ったのはツイッターで、イクラさんの代表歌「ヒカリ」もyoutubeで見させていただき、胸に迫るものがありました。

虐待の痛みと残酷さと醜さを、鋭く、苛烈に、優しく、哀しく歌い上げる色彩の豊かさと、歌声と歌詩とオーラの迫力に圧倒されました。

イクラさんの歌は、「命を鷲掴みにされる」というか、「命に触れてくる」歌、だと思います。


・・・・・・・


児童虐待について、語る、歌う、ということ。

この、『虐待』という、きっと恐らく、誰にも、代弁などできないのではないかと思われる、語っても語っても語り尽くせず、

歌っても歌っても歌い尽くせないのではないかと思われる、あまりに果てしなく、あまりに遠く、広大な、底のない、この、「闇」について。

「虐待」という言葉の原型は、アビューズ、(権力の)濫用という意味。

必ずしも、子供を死に至らしめるほどの暴力のみを指すのではない。

ニュースになるのは、すでに死者となった、「濫用された果ての子供」の姿だけ。

この国では往々にして、魔女裁判のように、子供は、死んで初めて、「虐待されていた」「親の被害者だった」と世間に認知されるようだ。


・・


『今もその傾向は残っているが、当時、「児童虐待」といえば、それは子供が大人に殺される話だった。

殺される子供は三歳以下の幼児が多いから、マスコミは「幼児虐待」という言葉を使いたがる。

児童虐待は滅多にないことがらで、その被害を受けた子の殆どは死んでしまうということになれば、

被虐待児のその後に関心が向かうこともない。



結果として、苛酷な幼児期を過ごして、児童期、思春期、更に成人期を迎えた人々の対人関係の障害、

友達の作れなさ、気分のムラ、嘘つきの傾向、怒りと衝動性、自殺しやすさ、アルコールやドラッグへの溺れ、

恋愛幻想とそこから始まるストーカー行為、多重人格を含む乖離性障害などに関心を持つ人は

極めて少なかったから、そうした問題を抱える子供や大人は、脳神経系の障害を持つ子供と認められたり、

人格に問題のある大人と見られていたりしていた。』



「日本には性的虐待がない。

これが日本の文化の特徴の一つである」

(1997年に東京で開かれた国際学会での、ある精神科医の言葉)

などといっていたのは、人々の実態を見ることを怠った、「専門家」たちのゴタクに過ぎなかったのである。』

トリイ・ヘイデン「タイガーと呼ばれた子」あとがき 斉藤学


・・


10年程前に書かれたこの指摘と現状は、未だに、そう変わりないという気がする。

虐待には、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(放棄)、精神的虐待、の分類がある。

虐待は、見た目的・絵的に、その「惨状」が、こちら側にどう主張してくるか、ではなく、

子供(人間)が権力に「アビューズ、濫用」されているかどうかを、こちら側が「眼差す目・読み解く目」が問われる。


眼差す目は、人間の根幹、人間が人間であること、わたしがわたしであること、

人間という社会の、「尊厳と人権の根幹」を眼差す目。

子供虐待問題とは、個人個人が、どれだけ、「人間・自分の中の尊厳/人権」を見つめられているか、

という問題と関わっていて、誰もの「人間の根幹」と、地下水脈のように、深いところで、関わり合っている問題だと思う。


・・


虐待とは、「家庭で行われる、戦争」だと思う。

平和が普通の社会と、家庭の壁一枚隣り合わせの、戦争。そして地獄。

そして、「見えない戦争」、「透明な戦争」。

虐待そのものも、平和な社会で、家庭の壁一枚隔てた向こう側で隠されながら行われるもので、

見る側の知識、人権意識、凄惨さを見つめる勇気、人間性、見ようとする意識がなければ、往々にして見過ごされるものだし、

虐待の、その後、傷ついた心との闘いなど、決して外、他者からは窺い知れない、

「なんだか知らないけど、あの人、変な人」、などと目され忌避されるのが定石の、完全に透明と化した戦争だ。



渦中も死と隣り合わせの戦争だけど、戦争を生き延びた後、「児童虐待の、その後」、そちらの方も、より長い地獄だ。

「普通」の社会の中の様々な場面で起こす不適応、行き場を失くして荒れ狂う感情と記憶に内側から蝕まれること、

人間関係の「作れなさ」。

異常が普通の戦争を、精神や心や魂を引きちぎられ、粉砕され、壊され壊しながら必死で生き抜いた、「その後」、

そんな戦争など起きていない、家庭の壁一枚隔てた、平和な「社会」の中で、自分が、

ニンゲンとしてほとんど「機能」しない、「ナニカ」になっていること、

「平和が普通の社会」では、通用しない、バケモノのような心になっていることに、絶望する。

そこから、別の、新しい地獄が始まる。

虐待がない地獄、この社会の見知らぬ「平和」を、普通として生きていくこと、生きていけない自分を見つめ続けなければならない地獄。

だから、児童虐待を生き延びたものは、「サバイバー」、戦場の帰還兵に適用された言葉で呼ばれる。

そして、帰還兵の多くがそうだったように、深い心の傷の叫び、普通の日常を送ることさえ困難な、PTSDを発症する。


・・

「虐待」というものの最も残虐なところは、一過性のものではないことだ。

「虐待」の前に「児童」という言葉がつくように、それは児童期のみに起こる、児童期のみで終わるもの、

とでもいう印象があるのかもしれないが、それが決して事実ではないことだ。

虐待をする者はもしかしたら、一過性の欲望や感情の発散として行うのかもしれないが、

虐待によってつけられた「傷」、苦痛の記憶、「情報」の刻印は、CDやDVDのように、

脳構造、DNA構造に半永久的に刻み込まれ、稼動し続け、被害者を内側から傷つけ続け、壊し続ける。





虐待は、「終わらない」のだ。

たとえ、その行為そのものが、終わっても。たとえ加害者が、親が死んでも。

そして、奪い続ける。

その人がその人として生きるはずだった人生を、時間を。

内在化されてしまった虐待、自分の中の暗黒の記憶と感情渦巻く戦争と、皮一枚隔てた「平和な世界」に、永遠に手が届かない。

戦争の記憶と苦痛に占領された心は、今、そこにある、平和が、安心が、安全が、理解できない。

幸せや安定のままに生きることを、奪い続ける。



人間形成期の初期に書き込まれた「記憶」は、その人間の内側で、稼動し続ける。


白紙の子供に刻まれた絶対的経験、地獄の底をも貫くような痛みは、それ自体で一個の人間を壊すにあまりあるけど、

それが、子供にとっての絶対者である親にされたことにより、より破壊的な経験として刻まれる。

白紙に刻まれるのは、痛みや暴力や罵倒、憎悪や破壊が、「普通」の「基準値」になること。

虐待、また否定感情の渦巻く家に生まれた時点で、子供の、ひいてはその後の一個の人間の、「生きる基準値」が狂うのだ。

虐待、という外側の戦争がたとえ終わっても、内側で、傷の記憶が刻み込まれた脳が、DNAが、終わらない戦争を繰り広げ続ける。

また、その行為が、「運良く、児童期に」終わったと、しても、

時には、「児童虐待」などという呼び名を超えて、親が、子供を搾取し続け支配し続けるために、

成人した子供が働くようになると、その給料を奪い続けるということもある。

そして時には、親が子供を人身売買、子供の体、性、心、魂を、売り渡し続けることもある。

家庭とは、人類最初で最後にして、最凶の、奴隷市場だ。


・・


虐待の影響は、長い間、現場でも、一般的にも、「心の傷」という抽象的、観念的な言葉でしか表現されてこなかった。

けれど最近になって、虐待の行為が及ぼす影響が科学的に研究され、「心の傷」といわれてきたものが、

実態的・物理的な、「脳の損傷・傷」であり、人間の一生に破壊的に影響を及ぼし左右する、

「DNAに及ぶ損傷、傷」であることが、判明しつつある。

虐待とは、そして、それによる「心の傷」とは、子供という人間の根幹、人間と社会の根幹である、

脳とDNAを直接的恒常的に破壊する行為だ。

虐待に限らず、ストレスへの反応を、甘えや気の持ちようなど、精神論で話すことが一般的だけど、それは、ただの脳の生化学的反応、

強いストレスへの正常な免疫反応なのだと思う。

虐待とは、脳やDNAをも、ダイレクトに破壊する行為だ。

ストレスへの脳の免疫反応が、脳への直接的ダメージが、精神面や身体に、直接影響が出ないわけがない。

それは、心身の不調や病として症状化し、そこが人間としての生体にとって、実際に有害なものであることを警告しているのだ。

・・


また、幼少の初期から深い傷によって、脳やDNAレベルで変質してしまった被害者は、発達障害やアスペルガー、人格障害、

学習性無力症、自殺願望、欝など様々な精神障害に陥れられ、それが原因で、特に日本のような同調圧力の強い社会では、

「普通の人と毛色が違う」などの理由から、児童・思春期などにはいじめや排除にあい、

大人になってからも、痛みや暴力への慣れによる、苦痛を苦痛と認識すること自体が困難であるため、

食い物にされ、犯罪被害やDV関係に絡め取られ易く、そのストレスがまた心に(脳に)傷を作り、

一般よりも遥かに高い確率で、社会への適応に困難と苦痛をもたらす。

またベクトルが違えば、常に心身に脅威を感じているため、攻撃的になりやすく、暴力を学びいじめ加害になったり非行をしたり、

粗暴さ、犯罪、虐待の連鎖など、家庭で学んだ暴力を回りにもたらし、家庭の破壊は巡り巡って、社会に還元される。




虐待は、その人間と周りの社会に対して、生涯にわたって、半永久的に、二次被害、二次加害、様々な障害と破壊性を社会にもたらし、

死神のように生を刈り取り、枯らし、生きることへの苦痛と困難を刻み込む犯罪だ。

虐待は「第四の発達障害」、ともいわれるけど、虐待は、わざわざ健康で、才能に満ち溢れている可能性を秘めた子供を、

わざわざ傷つけ損ない、重度の心身の障害者にして、魂を心を殺し、少なからず、命を奪う行為だ。

虐待という暴力そのものが子供にとっては命の危機に足るに充分なものだけど、

子供にとって親に愛されないという痛みは、心を砕き魂を貫く。


・・


日本のように、社会、国が責任放棄し棄民政策を押し進め、家庭と個人に「自己責任」を説いて自らの責任は放棄したり、

母性神話や儒教観念や封建性や根拠の名精神論が強い社会では、弱者や痛みの声は、「甘え」や「自己責任」や「忠孝」、

子供を愛さない親などいない、など精神論で封じられ、子供を救うどころか、

子供の痛みを、「親の愛」などという概念で正当化して放棄したり、未だに、

「何が虐待か、どこまでが虐待か」というレベルの論議にすら至っていないと感じる。

「甘え」、「自己責任」、「子供を愛さない親などいない、これは愛情表現なんだ」などという言葉は、

世間の誰にいわれるよりも、ずっと、子ども自身が自分に一番強く長く切実に言い聞かせている言葉だ。

甘え、自己責任、忠孝、という精神論がはびこる社会では、親に愛されない痛み、虐待の、死に至る痛みを子供が背負った時点で、

穢れ、スティグマとして、排除される。



家庭の暴力や性暴力から逃げるために、性を売るというそれしか知らない社会の闇に流れ着いた子供たちを、

食い物にするのも、この社会の大人たちだ。

子供の性を食うのも売るのも買うのも、守らないのも、この社会の大人たちだ。

子供を喰らう家庭から逃げた子供を、非行や素行不良などで警察が捕まえ、わざわざ家庭に戻したりする。

だからこの国は、国連に「子供へのネグレクト社会だ」と警告された国だ。


ネグレクトとは、権力と強さを持ったものの、擁護、養育「義務」のあるものへの、「責任放棄」だ。

擁護義務のあるものに対して、「自己責任」「甘え」という言葉をぶつけてはばからないこの社会は、

権利と強者性は、弱者を踏みにじるために振りかざすものだと、きっとこの国は勘違いしている。

少子化だなんだ家庭の教育がなんだ女性の人権がなんだといいながら、

家庭でどれだけ子供が犯され殴られ殺され切り刻まれようと、おかまいなしだ。

そんな国が、親に国に見捨てられた子供に復讐されないわけがないなどと、ふと妄想してしまう。



虐待は、時に、ひたすら理不尽で感情的な暴力や欲望の発散、というだけではない。

慢性的恒常的な子供の人格の否定や、しつけや教育の名を借りたコントロール、

自分の弱さから、子供をカウンセラーや配偶者のように依存し利用すること、家庭内いじめやセクハラ紛いの行為、

傍目には劇的ではない、様々な形をとって現れるけど、これらも子供、一個の人間の心を未来にわたって壊すには十分なものだ。



なぜ「虐待」を「虐待」と呼ぶのか、呼ばなければならないのか、呼ぶ必要があるのかというと、

人間としての始まり、世界の始まりそのものである子供、「児童」期から、

その創造主であり神にも等しい「親」にされるのが「虐待」なわけだけど、

それが「世界」であり、創造主、神なる親のすることであり、人間としての「始まり」に行われたことは、

それがたとえ、殴られ、飢えさせられ、殺され、犯され売られることであっても、子供は、それを、

それが、それこそが、「世界」なのだと、当たり前で普通なのだと、往々にして、それは自分が悪いからなのだと思いさえして、

自分を壊し殺す世界を受け入れ、適応してしまう。生き延びるために、受け入れるしかないからだ。


当然ながら、どこかで学び、知り、教育されない限り、子供の世界に、最初から、

虐待という言葉や、虐待されたら、誰にどこにどう助けを求めるか、などというノウハウがあるわけがない。

それが世界なのだから、絶対的に正しいはずの親のすることなのだから、親に強いられていることを、

殺されるまで、殺されても、壊れても、それを「痛み」と認識することさえ、できないこともある。

だからこそ、子供は、人間は、壊れるのだ。

そして、世界にまたひとつ、狂気が生まれる。

魂そのものに刻み付けられる、破壊が生まれる。



//////// 


『児童虐待が脳に残す傷」M.H.タイチャー(ハーバード大学医学部)

出典:日経サイエンス 2002年6月号


「子どもの脳は身体的な経験を通して発達していく。

この決定的に重要な時期に虐待を受けると、厳しいストレスの衝撃が脳の構造や機能に消すことのできない傷を刻みつけてしまう。

いわば"ハードウエア"の傷だ。


虐待を受けると、子どもの脳では分子レベルの神経生物学的な反応がいくつも起こる。

これが、神経の発達に不可逆的な影響を及ぼしてしまう。

幼いころの経験が脳梁の発達に影響を及ぼすという結果は、

エモリー大学のサンチェス(Mara M.Sanchez)によるサルの研究でも確認された。

…この一連の出来事を通して、暴力や虐待は世代を超え、社会を超えて受け継がれていく。
 

私たちが断固として主張したいのは、まず最初に、

何としても児童虐待が起きないようにする努力がもっと必要だ、ということだ。

いったんカギとなる脳の変化が起こってしまうと、二度と元に戻らないのだから。」

http://www.nurs.or.jp/~miyazaki/news/2002-4/2002-6nikkeisience.htm



「幼い脳、性的虐待、言葉の暴力で萎縮」

「萎縮は、虐待をストレスと感じた脳が副腎皮質ステロイド(ストレスホルモン)を大量に分泌し、

成長している子どもの脳の一部の発達を一時的に止めることから起きると考えられている。」

http://qnet.nishinippon.co.jp/medical/news/kyushu/post_685.shtml


//////////


『虐待を受けた子どもの傷 遺伝子にはどのように残るのか』

「心理的なストレスによってテロメアが浸食されるスピードが速まり、

時計が早く進む可能性のあることがこれまでの研究によって明らかにされ始めていたが、

上記の研究は被験者の虐待の記憶に依存するところが大きかった。


その後、米チューレン大学のステイシー・ドルリー博士らはルーマニア・ブカレストの

児童養護施設にいた子どものテロメアが里親の下で育てられている子どもと比べて短かったことを発見した。」

http://jp.wsj.com/public/page/0_0_WJPP_7000-441748.html?mg=inert-wsj



「幼少時に虐待を受けると、そのしるしがゲノムに残るようだ」と話す。

この発見は今週、「Nature Neuroscience」誌で発表された。 

「アメリカ南東部ジョージア州アトランタのエモリー大学に在籍し、

ハワード・ヒューズ医学研究所の研究者でもあるケリー・レスラー氏は、次のように説明している。

「成人が患うあらゆる種類の精神疾患において、幼少期の虐待は最高レベルの危険因子であり、

それらすべての精神疾患には遺伝的要因があることが判明している。

そしていま、幼児虐待と遺伝的要因の相互関係が理解されつつある」。





環境がこの種の影響力を持つという考え方は、エピジェネティクスという新しい研究分野の重要なポイントである。

エピジェネティクスとは、DNAの塩基配列変化を伴わない遺伝情報の変化を研究する学問である。

「薬や毒などの化学物質ではなく社会環境が遺伝子の発現を変化させるという、非常に興味深い現象だ。

この分野は生命現象の理解にますます重要となるだろう。」とスジフ氏は言う。」

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=46943684


///////


私は、例えそれが命の恩人だったとしても、世紀の聖人だったとしても、例え宇宙の真理だとしても、

子供の苦痛を前にして、

「虐待には良いところもある、虐待など大したことではない、これは虐待などではない。」

などという発言と認知があるとしたら、断固として容認しない。

それが宇宙の真理並みに「正しい」ことだったとしても、それが、目の前の、かつての子供の苦痛を踏みにじることなら、

正しくなくたってさえいい、悪になっても、絶対的に拒絶する。

親に愛されないことは、創造主の神に、創造主が作ったこの世界の全てから排除され、否定され、打ち捨てられたような苦痛だ。

わたしはそれを、その苦痛と涙を看過し容認するものを、決して容認しない。

・・


永年臨床の現場が「心の傷」なる不可視のモンスターと、手ずから格闘してきた歴史に比べると、

「心の傷」なるものが、観念的抽象的なものではなく、物理的・実態的なものであることが

ようやく科学により可視化されたことは、やっと、であり、あまりに、半世紀は、遅い。

現場、実態の場から、科学はいつも、あまりに遅く追いつく。

それを待つことなく、「虐待」、「心の傷」という、時に忌避されるが故に不可視なるモンスター、

昔も今も、人間と社会と世界の根幹に、破壊的に波紋する、世界で最も深い闇から発せられる叫び、

透明な血と叫びを上げ続ける「心の傷」の実態に、目を凝らし、耳を澄ましてほしい。


・・


そして、もっと未知で、もっと大切なこと、虐待の破壊性の痕跡が、脳、DNAに、いわば、「心、魂」に刻まれるのだとしたら、

きっと、今まで現場が、「心の傷」と格闘してきた歴史、この暴力と痛みに満ち溢れた世界では、

奇跡的な確率しか存在しないかもしれないけど、「心の傷が癒える、回復」という過程もまた、半世紀遅れで、

その一縷の光である軌跡を、科学はいつか、明らかにするのかもしれない。

それは、科学的に未知で未だ不解明である以上、

心が癒える=脳やDNAそのものが癒える、回復する、という定義ではないのかもしれない。


けれど、不可逆といわれる、脳やDNAの損傷すら癒す、回復する、ちからが人間にあったなら、

破壊するちから、闇と同等の、愛の、光の、癒すちからもあったなら、と思う。願う。


・・・・・・・・
・・・・


「親から愛されない子供というのは、額に銃口を押し当てられている人質と同じです。」

・家庭内ストックホルムシンドローム

http://hsmile.blog4.fc2.com/blog-entry-3623.html

・・・

■虐待死は、殺人である ~文月メイさんの『ママ』で「素直に号泣」した方へ

http://createmedia.blog67.fc2.com/blog-entry-189.html


・・・


「児童虐待と“癒やされない傷”」 友田 明美 氏(福井大学 子どものこころの発達研究センター 教授)

待によって生じる脳の変化はいかなるものなのか、という問いに近年の脳画像診断法の進歩が貢献している。

それによると、子ども虐待は発達するヒトの脳機能や神経構造にダメージを与えることが分かってきた。



小児期に虐待を受けた影響は、思春期・青年期・壮年期など、人生のあらゆる時期においてさまざまな形をとって現れる。

抑うつ状態に陥ったり、ささいなことでひどく不安になったり、自殺をたびたび考えるようになる場合もある。

外に向かう場合には、攻撃的・衝動的になって反社会的行動に出たり、一時もじっとしていられない多動症や薬物濫用となって現れ、

衝動的な子どもや薬物依存の増加といった社会問題とも関係している。

既報告では、子ども虐待による薬物濫用、うつ病、アルコール依存、自殺企図への進展は50-78%の人口寄与リスクがあると言われている。


http://scienceportal.jp/HotTopics/opinion/254.html

コメントする(論客のみコメント可能記事)17個

4.
2011/01/01
書いた本人専用メモ書き
5.
2010/12/22
貴方は、現在ログイン状態ではありません。
↑上へ