フェティアの日記/書き物

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1.
2017/02/20 2017年アニメ > 『鉄血のオルフェンズ』44話 : 感想 + 考察 ――『DESTINY』からの呼び声。」
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1. < 鉄血のオルフェンズ と SEED DESTINY >
2. < 鉄血のオルフェンズ の 批評性 >
3. < 歴史 と 伝説 >
4. < 宙吊り の 強迫性 >
5. < オルガ・イツカ と シン・アスカ >
6. < ミカヅキ・オーガス と ザック・ロウ >
 
 

 
 
『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』44話 感想+考察。
予定よりも長くなったため、こちらの形式に。
 
あまり明白な形で行うつもりはありませんでしたが、
今回は、敢えて『SEED DESTINY』と併せた考察になっています。
 
 
 
 
1. < 鉄血のオルフェンズ と SEED DESTINY >

 
誰も触れないため触れると、前回の43話と今回の44話のプロットは、
『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の明白なオマージュになっている。
 
まず、『SEED DESTINY』の43話と44話は、オーブ側の放送をジャックしたデュランダル側の放送を、
ラクスたちがさらに再ジャックし、ザフトの欺瞞と虚偽を暴きつつ、世界に問い投げかける回になっていた。
次に、『鉄血のオルフェンズ』の43話と44話も、それと全く同様のプロットを採用していた。
さらに、43話のEDから44話のアバンまで、『オルフェンズ』のそれは『DESTINY』のそれと、
完全に同じ構図を採っているため、まぁ、意図的な演出と考えるのが妥当だろう。
 
そして、これもまた自明だが、『オルフェンズ』のビーム兵器の扱いについては、
『DESTINY』のビーム兵器と実弾兵器のそれを綺麗に反転させた構図を成している。
戦闘シーンにおけるBGMの使い方や、キャラクター同士の掛け合いなど、
物語内容はもちろんのこと、世界観の設定や諸々のアニメーション演出も含め、
『鉄血のオルフェンズ』という作品は、『SEED DESTINY』という作品に対し、
極めて批評的な作品だと言える。
 
 
 
 
 
2. < 鉄血のオルフェンズ の 批評性 >

 
さて、ご承知の通り、『SEED DESTINY』は『Zガンダム』に倣った作品だと言われている。
これに対して、『オルフェンズ』もまた、明らかに『Zガンダム』を意識した作品だ。
現に、マクギリスとシャア(≒クワトロ)の共通点は、多くの人が語るところだろう。
 
 
その意味で言うと、『鉄血のオルフェンズ』という作品は、それ単独の作品としてではなく、
『Zガンダム』や『DESTINY』といった、ガンダムの系譜のなかで考察されるべき作品である。
例えば、オルガ・イツカ(≒鉄華団)とシン・アスカの類似性を、私たちは無視するべきではない。
 
果たして、オルガ・イツカ(またはシン・アスカ)にとって、
その上官がアスラン・ザラではなく、名瀬・タービンだったことは、
幸運だったのだろうか、それとも不幸だったのだろうか。
この一点をめぐっても、消費者の判断は分かれるはずだ。
 
 
いずれにしろ、それぞれの作品が、それぞれの時代の欲望を的確に描き出していることに間違いはない。
つまり、一方の『DESTINY』は、シン・アスカとアスラン・ザラというキャラクターでゼロ年代という時代の欲望を、
他方の『オルフェンズ』は、オルガ・イツカと名瀬・タービンというキャラクターでテン年代の現在という時代の欲望を、
婉曲的かつ批評的に抽出していたことは事実だろう。もちろん、オルガとシンの対比に限らず、
例えば、デュランダルとキラの対決構造や、マクギリスとガエリオの対決構造も、
前述のそれと同様に、各々の時代の歪みと影を雄弁に物語っている。
 
そして、『オルフェンズ』が示す『DESTINY』に対する批評性を、
最も鮮烈に象徴する存在こそがミカヅキ・オーガスである。『DESTINY』には在り得ず、
『オルフェンズ』では作品の根本を支える存在、それがミカヅキの露悪的なリアリズムだ。
彼の存在が、ゼロ年代とテン年代の欲望を明白に峻別している。
 
 
などなど。
『オルフェンズ』の結末がまだ分からないため、
あまり真剣には考察していないが、今回の43話と44話が象徴するように、恐らく『オルフェンズ』には、
『DESTINY』を批評的に宛てがった回や演出が、他にも数多く存在していると考えられる。
 
 
 
というのが、直近2話の第一印象。
 
 
 
 
  
3. < 歴史 と 伝説 >

 
以上のような文脈は、一定の範囲で念頭に置かれて然るべきだろう。
 
そのうえで、本項では、
直近の2話により注目しつつ、上記とは異なるもうひとつの文脈を提示することで、
『鉄血のオルフェンズ』の批評性を迂回的に補足しようと思う。
 
 
はじめに、今回『オルフェンズ』の44話が強調したワードは「歴史」であった。
そして、そこで描かれていた歴史観は、他の誰のものでもなく、恐らく長井龍雪の歴史観だったと考えられる。
 
かつて長井監督は、戦争について「僕たちの世代は戦争を歴史としてしか知らない」と述べている。
実際に、『オルフェンズ』の世界に登場する人物たちは、「世界内戦」は知っていても、「世界大戦」を知らない。
現在の『オルフェンズ』の世界は、「世界内戦」状態にはあっても、「世界大戦」状態では決してないのである。
これは、現代社会と極めて近しい構造を採っている。現代を生きる私たちもまた、彼らと同じように、
あるいは、彼らもまた私たちと同じように、「世界大戦」を「歴史」としてしか知らない世代なのだ。
 
 
 
そのうえで、43話と44話は、
現代の私たちが抱く「歴史」に対する両義的な感覚を的確に描き出していたと言える。
すなわち、物事を「歴史」として知ること、あるいは、物事を「歴史」として記録すること、
はたまた、物事を「歴史」として学ぶこと、さらには、「歴史」自体を尊ぶこと――
そうした「歴史」をめぐる様々な議論と価値と弊害を、
43話と44話は繊細に描き出していたのだ。
 
『オルフェンズ』が示すこの「歴史」に対する両義的な感覚は、
長井監督がキャラクターデザインを依頼した、『シュトヘル』の作者・伊藤悠氏のそれに近しい。
『シュトヘル』では、さらに「文字」を媒介にして、歴史を紡ぐことの意義と暴力が描き出されている。
 
 
同様に、『オルフェンズ』においては、
「歴史」が、物事を「記録」すると同時に、物事を「忘却」することの暴力を描き出されていた。
つまり、一方で私たちは、物事を記録(=歴史化)しないかぎり、それを記憶し、後世に残すことができないが、
他方で私たちは、記録された物事(=綴られた歴史)以外の物事については、忘却するより他なくなってしまう。
 
例えば、ラスタル・エリオンが、マクギリスの抱き締める「歴史」を「伝説」にすぎないと断罪した由来はここにある。
「歴史」のなかには、私たちを幻想の繭のなかに閉じ込めてしまう危険性も秘められているのだ。
 
マクギリスが傾倒するアグニカ・カイエルの「伝説」は、余りにも多くの物事を「忘却」しすぎている。
あるいは、マクギリスにとっての「伝説」は、余りにも彼にとって都合の良い「歴史」に仕上がりすぎている。
恐らく、今後マクギリスは、彼が「忘却」したアグニカの「歴史」に反旗を翻されることになるのだろう。
 
 
 
一般的に言って、「歴史」とは、常に現在を批判するために参照されるべき理念である。
それは、決して現在を肯定するために参照されるべき道具ではない。反対に言って、
ラスタル・エリオンが語ったように、現在を肯定するために用いられた「歴史」は、
須く「伝説」へと転落してしまう。
 
 
それを踏まえて言えば、『オルフェンズ』が描き出す「歴史観」は、
テン年代の現在の「歴史観」を考えるうえでも、極めて示唆深いものなのではないだろうか。
 
 
 
 
 
4. < 宙吊り の 強迫性 >

  
という別の批評的な文脈も添えつつ、実際の物語に触れていこうと思う。
 
 
44話の終盤では、「次が最後」というワードが「過剰」に連呼された。
その時点で、44話の脚本が岡田麿里であったことは即座に分かるわけだが、
ともあれ今回は、実に岡田麿里らしい「宙吊り」が行われていたと思う。
 
具体的には、
まず、44話では、敢えて「次が最後」というフラグ(=データベース的知)をインフレーションさせることで、
本来は消費者に対して安心感を与えるはずのフラグを、潜在的な不安感へと転倒させてみせていた。
次に、44話は、そのフラグのインフレーションが醸し出す潜在的な不安感を、敢えてアトラに語らせることで、
フラグというある種の「お約束」が持つ安心感を完全に脱臼し、今後の展開を謎に包んでみせていたのである。
 
つまり、フラグがインフレーションし、且つそのインフレーションが意識化されたことで、
消費者は、文字通り、次の展開が本当に分からなくなってしまったのだ。
 
 
 
しかし、恐らくこの「分からなさ(=宙吊り)」こそ、鉄華団が直面している「分からなさ(=宙吊り)」に他ならない。
そして、この「分からなさ」ゆえに、彼らは「次が最後」――「あと5話だ」と自らに言い聞かせながら、
戦場へと足を運ぶのである。なぜならば、それだけが彼らにとっての救済の道だからだ。
 
 
例えば、もし今回の「宙吊り」が35話前後に行われたのであれば、
すなわち、ちょうどタカキが退団した地球編前後の段階で行われたのであれば、
私たち消費者も鉄華団も、「次が最後」と自らに言い聞かせることなく、「降りる」ことが可能であったかもしれない。
現に、2期の地球編前後で、視聴者にも移動があったように見受けられる。
 
しかし、「現在の私たち」は、もうここにまで至ってしまったのだ。
もはや「降りる」ことは叶わない。それは一種の強迫観念と言って差し支えなく、
それは、ミカヅキがオルガに突き付ける、あの強迫観念と相違ない。
 
 
もちろん、消費者が感じる強迫性と、鉄華団の子どもたちが体感する強迫観念は異なるものだろう。
消費者が感じる不安と強迫性は、どちらかと言うと、メリビットや雪乃丞のそれに近いはずだ。
現に消費者たちは、スペースデブリとは異なって明らかに安全であり、かつ選択の余地も充分に確保されている。
しかし、それでもなお、宙吊りにされる不安感を引き受けながら「あの船」に乗り続けること、
それが『オルフェンズ』の描く、大人たちの倫理観のひとつであるように思われる。
 
 
その意味において、メリビットらの存在様式は極めて示唆深い。
鉄華団の「家族」になることは叶わないが、それでもなお、「あの船」に居続ける存在――
恐らくその存在様式が、本来あるべき消費者の姿なのだろう。
 
 
 
 
 
5. < オルガ・イツカ と シン・アスカ >

 
とは言え、鉄華団には違う道があり得たかもしれない。
すなわち、鉄華団にも違う可能性が在ったはずなのだ。
 
 
例えば前述したように、鉄華団には、アスラン・ザラと出会う別の可能性があったはずだ。
その善し悪しは別にするにしても、「お前が本当に欲しかったのは、本当にそんな力か!」と独りよがりな説教をかます、
はた迷惑な連中たちと鉄華団が出会ってしまっていた可能性も確かにあり得たはずである。
 
しかし、幸か不幸か、鉄華団は「アスラン・ザラ」ではなく、「大人たち」としか出会うことができなかった。
名瀬やメリビットなどの「大人たち」は、「アスラン・ザラ」ではなく、あくまでも「ひとりの大人」として鉄華団に接し、
彼らを否定することも説得することもなく、ただ見守り、時に手を差し伸べるだけに留まり続けしてしまった。
「ひとりの大人」として、彼らは鉄華団に対し、それ以上の言葉をかけることはできなかったのである。
 
強いて言えば、その他に唯一鉄華団が出会ったものは、
彼らの強迫観念を変曲したかのような歪みを持つマクギリスのみであった。
それはまるで、ひとりのレイ・ザ・バレルやギルバート・デュランダルのようだ――。
 
 
 
さて、繰り返しになるが、
鉄華団の出会った人間たちが、「アスラン・ザラ」ではなく、「大人」であったことが、
鉄華団あるいは「ひとりのシン・アスカ」にとって、良かったのか、悪かったのか、それはまだ分からない。
 
この「分からなさ」は、単純に『鉄血のオルフェンズ』という作品の結末が分からないという意味に留まらず、
『DESTINY』が必死に描いたような、ある種の迷惑な連中が消え去ってしまった、
このテン年代の行く末についても言えることである。
 
 
私たちの時代には、もはやオルガ・イツカ(あるいはシン・アスカ)の周りに、
「アスラン・ザラ」のような “中途半端な人間” は存在していない。彼のようなウザい存在は、
原理主義的なまでのリアリズム――実に矛盾した表現だ――を象徴するミカヅキ・オーガスの手によって、
オルガ・イツカ(あるいはシン・アスカ)の周囲から、徹底的なまでに排除されてしまっている。
私たちの時代には、鉄華団か、マクギリスか、あるいは「ひとりの大人」が残るのみだ。
そこにはもう「アスラン・ザラ」が存在可能な余白はない。
 
 
「アスラン・ザラ」を失ってしまった私たちと鉄華団は、如何なる結末を迎えることになるのだろうか。
そしてその過程で、歪曲された歴史――「伝説」――は、私たちと鉄華団に何をもたらすのだろうか。
 
敢えて言えば、『SEED DESTINY』という作品を踏まえるかぎりにおいて、
『鉄血のオルフェンズ』という作品は、確かな批評性を帯びると言える。
 
 
 
 
 
6. < ミカヅキ・オーガス と ザック・ロウ >

 
なお、補足的に言うと、
ミカヅキ・オーガスは「キラ・ヤマト」や「ラクス・クライン」をも正確に排除している。
 
つまり『オルフェンズ』が私たちをある種の「分からなさ」に閉じ込め宙吊りにしていることは事実だが、
『オルフェンズ』の「分からなさ」と、『DESTINY』の「分からなさ」では、明らかに質感が異なっている。
 
一方で、良くも悪くも『DESTINY』の「分からなさ」は、抽象的かつ予言的であり、ある種の宗教的な手触りを有していたが、
他方で、『オルフェンズ』の「分からなさ」は、より具体的かつ現実的で、直近の将来に関する不透明さを意味している。
 
この「分からなさ」をめぐる二作品の差異は、例えば、43話と44話のオマージュにも良く現れている。
『DESTINY』の44話にて、ラクス・クラインが放った言葉は、どこまでも両義的で世界の判断を宙吊りにするものであったが、
『オルフェンズ』の44話にて、ガエリオとラスタルが放った言葉は、どこまでも明快で世界に対して指針を示すものであった。
当然ながら、それらの言葉を受け取る人々の反応も相異なっている。
 
 
強いて『DESTINY』の44話と『オルフェンズ』の44話の共通点を挙げるならば、
雪乃丞がザックに与えた言葉――「考えることを止めるなよ」――のみであった。
 
そこには僅かだが明らかに意図的だと分かる範囲で、『DESTINY』の主題の残滓が示されている。
正しく雪乃丞はこう願わずにはいられなかったのである――オルガにも別の可能性があったのではないか、と。
それが『SEED DESTINY』という可能世界であったことは、改めて指摘するまでもない。
 
 
 
さて、私たちと鉄華団が生きる世界には、
もうアスラン・ザラも存在しなければ、キラ・ヤマトもラクス・クラインも存在しない。
それが良いことなのか、悪いことなのか。この判断の前でこそ、
私たちはいま、宙吊りにされている。
 
 
 
 
 

 
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2.
2017/02/16 2017年アニメ > 2017年 冬アニメ 感想 5 + いろいろな補遺。」
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雑記。
 
 
 
 
◯ 鉄血のオルフェンズ 43話 感想
 
今回は久々の鴨志田回であった。やはり脚本の分担は、阿頼耶識システム関連の脚本を鴨志田さんが、
キャラクター関連の脚本を岡田さんが、戦術戦闘回をサンライズ系の脚本家が、それぞれ担当しているのだろう。
いずれにしろ、担当する脚本家によって、イオク様のキャラが乱高下するのは、さすがに如何なものかとは思う。
が、他方で、それもアニメ制作の魅力のひとつなのかもしれない。
 
なお、マッキーやガエリオの過去に関しては敢えて触れないつもり。
 
 
 
さて、ようやく登場したバエル(とアグニカ・カイエル)である。
そして、無難に考えるのであれば、アグニカ・カイエルとは、
恐らく肉体をもった人間ではなく、人工知能なのではないだろうか。
 
素朴に考えて、人工知能に対抗し得るものは人工知能である。
また、これまで徹底してロマンチシズムに対してアイロニカルであった本作が、
大戦の英雄に生物学的人間を、唐突かつ愚直に宛がうとはなかなか考えられない。
 
そして、恐らくそうした人間に対するロマンチシズムを偽装している組織こそがギャラルホルンである。
かつてギャラルホルンは、アグニカ・カイエルなる人工知能(あるいはそれに類する何か)を、
大戦の英雄(=理想的な人間)として、虚構的に祭り上げたのではないだろうか。
そのうえで、そこでは生物学的人間が、ある種の制御装置として用いられ、
生物学的人間の搭乗と生命が人工知能のリミッターとして機能していた、
などと言った設定考察は、まぁ、データベース的思考で素朴に考えられる。
 
例えば、パイロット(というか生体制御ユニット)が一定の条件で死亡するように設定しておけば、
無類の強さを誇るギャラルホルン製の人工知能も、パイロットの死亡と同時に活動は停止する。
 
が、時は流れてアグニカ・カイエルの制御方法は失われ、
何も知らぬマクギリスが、アグニカ・カイエルに操られ暴走し、
ガエリオvsマクギリスの後、暴走アグニカ・カイエルvsミカヅキというのが、
まぁ、何というか、素朴な展開予想である。もちろん、それほど素朴に展開しないことを願っているが。
 
 
いずれにしろ、恐らくあの世界の全ては虚構にすぎない。
信じたものの全てが虚構であることを知った後、それぞれの登場人物たちは、
どの虚構を選び、如何なる決断を下すのか。
 
最終話に向けて注目していきたい。
 
 
 
 
 
 
◯ クズの本懐
 
まぁ、どうなのだろうか。
宮台真司的に言えば、オタクとは虚構を現実化する存在であり、
ヤンキーとは現実を虚構化する存在である。
 
その意味で言えば、『クズの本懐』の登場人物たちは、
紛れもなく現実を虚構化することで、日常の生き延びを図ろうとしている。
 
普段アニメを観ないような人々とアニメを繋ぐことが、ノイタミナの理念であることは良く理解できる。
しかし、余りにも非オタク的な思考形態に、オタクたちが嫌悪感や拒絶反応を示したとしても、
それは致し方がないことだと思う。
 
反対に言えば、アニメ消費者たちがこの生活様式を絶賛するようになってしまうと、
かつて提唱された「オタクに学ぼう」というスローガンは霧散したと言わざるを得ない。
 
 
だがしかし、この『クズの本懐』に現れるリアリティが、
全く理解できないというようなオタクたちが増えてしまっているのであれば、
それは前述の事態よりも、なお一層深刻な危機であるようにも思われる。
 
実に難しい作品だと思う。
 
 
 
 
 
 
◯ この素晴らしき世界に祝福を!2
 
「楽しいもの」とは、大凡「正しくない」ものである。
 
だが、このサイトでは繰り返し述べているように、
「正しくないこと」に対し、ただただ「正しくない」と宣っていることに意味はなく、
何よりも、そのような行為こそが、他の全てよりも最も「正しくない」振る舞いである。
 
これに対して、批評とは価値転倒の営みである。
つまり「正しくないもの」のなかに隠れた「正しさの潜在性」や、
「正しくなさの果て」を発見し、意識化し、現勢化する営みが批評である。
 
 
さて、昨今の世界には、自らを「正しいもの」だと自認する人々は無数が存在している。
しかし、そうした人々の殆どが、単に「正しいこと」を無闇矢鱈に書き連ねるだけに留まっている。
よって、そうした「正しさ」を自称する人々が、単純に「正しいこと」を「正しい」ということを止め、
「楽しいが、正しくないこと」のなかに、敢えて「正しさの潜在性」や「正しさの可能性」を発見する正しさ――
すなわち、批評的な価値転倒の「正しさ」に、少しでも関心を持ってくれることを個人的には期待している。
 
 
明らかに「ダメなもの」を「ダメだ」ということに、言説としての価値はない。
 
それにしても、6話の作画は神だった。
 
 
 
 
 
 
 
以下、雑記。
ほぼ前回の補遺です。
 
 
 
 
◯ 人柄と主張
 
まず「Post Truth」について簡潔に述べると、「Post Truth」の主な原因とは、
インターネット化により、マスメディアの力が弱まったことにある。
すなわち、良くも悪くも、情報に方向付けが成されないということだ。
その結果、私たちは知りたいことだけを知り、信じたいことだけを信じるようになったと言われている。
 
こうしたメディアの変遷は、近年の米国では様々な映画の題材になっている。
例えば、『ニュースの真相(英題 Truth)』は、2004年に起きたCBNの誤報問題を題材とした作品であり、
『ニュースの真相』や題材となった「CBNの誤報問題」は、「Post Truth」を考えるうえで、極めて示唆に富む作品だ。
なおCBNの誤報については、既に承知のもの、または各自で調べて頂けることを前提に、説明は省く。
 
『ニュースの真相』が示唆することとは、
物証が捏造であったという事実と、現に「兵役逃れ」が在ったかという議論は、
全く別の問題系であるにもかかわらず、大衆は一方の物証が捏造であったならば、如何に状況証拠が正しかろうとも、
他方の「兵役逃れ」をめぐる議論もまた "白" だったと確信してしまう悲劇だ。これを認知的整合化という。
特に、『ニュースの真相』は『大統領の陰謀』を意識して制作されているため、
『大統領の陰謀』と合わせて考察すると、より興味深いものになる。
 
いずれにしろ、確かに情報提供者が示した物証は捏造であったかもしれない。
しかしながら、その事実と、現に「兵役逃れ」が在ったか否かは全くの別問題である。
が、不幸なことに、私たちはこの全く直交する2つの問題系を峻別して考えることが苦手なのだ。
 
 
 
そして同様の問題は、例えば、人柄と主張をめぐっても同じことが言える。
私たちは「人柄の問題」と「現に為された主張」を峻別して検討するべきだろう。
 
その意味で言えば、今回は、正しく「Post Truth」的な認知的整合化が発生した事態だと感じている。
今回の件では、「現に為された主張」に対して具体的に応じようとしたものは、誰一人としていなかった。
さらには、あろうことか当事者までもが、その認知的整合化に巻き込まれていったのだから事態はなお深刻である。
 
感情的な問題によって、理性的な問題を埋没させる手法――
こうした手法は、正義によって用いられることもあれば、悪によって用いられることもある。
『大統領の陰謀』は、結果論的にであるとは言え、最終的には正義に辿り着くことになったが、
悪がこの手法を用いるような事態も決して少なくない。現にそれを題材とした映画も多い。
そして、残念ながら昨今は、悪によって用いられる事態が多いと言わざるを得ない。
 
そうした意味で、今回の件は色々な意味で現代社会を象徴しているように思われた。
  
私たちは、感情的な問題と理性的な問題を峻別しながら、
感情的な問題は感情的な問題として、理性的な問題は理性的な問題として、
それぞれの問題を別々に議論する必要性を意識しなければならないのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
◯ 一般意志とエリート主義
 
以上を踏まえたうえで、前回の補遺を行うと、
別に私は、裏があること自体は決して悪いことではないと考えている。
むしろ、それはある種の無意識――あるいは一般意志の可視化装置として必要なものだろう。
 
問題は、その裏を踏まえた上で、私たちが表で何を為すかだ。
表ですら、裏と同様に無意識を只管に露出させ続けるのか、
それとも理性で以って抑圧し、論理的に議論を重ねるのか。
この両者の違いは非常に大きい。
 
そして、エリート主義的民主主義における民主主義の役割とは、
要するに、こうして可視化された裏(無意識または一般意志)を無視することなく眺めつつ、
それでもなお、粛々と理性的に議論を重ねるような、そうしたエリートを選出する点にある。
 
 
その意味で言えば、私はこのサイトで用いられる「論客」という皮肉に対し肯定的だ。
もちろん「論客」は民主主義に選ばれた存在ではないが、表と裏あるいはタテマエとホンネを使い分け、
だからと言って、裏を無視するわけでもなければ、表に立て籠もるわけでもない、何かそうした存在を私たちに連想させる。
また実際のサイトのアーキテクチャも、恐らく裏の発生は偶発的であったのだろうけれども、
ある種の「論客」の成立が可能であるアーキテクチャを提供している、と私は考えている。
 
 
というわけで、かの内容が適当であったかは別にしても、
近頃は、表での理性的な議論が減退し、表と裏の境界が崩壊しつつあり、残念だと感じている。
そして今回の件は、そうした現状を象徴する出来事であったように思われ、遣る瀬なさが拭えない。
 
 
 
 
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3.
2017/02/11 補遺 > 補遺 ―― ロックとルソー、そしてシュミットとシュンペーター。」
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簡単ではないが、簡潔な補遺。
これのどこが簡潔なのかというツッコミはなしでお願いします。
 
 
なお、恐らく殆どすべての人にとって呪文であると思われるため、
特別、下げ記事にする必要はないかなと。
 
 
 
 
 
◯ ロック と ルソー
 
ロックの社会契約論は、ホッブズの自然状態を踏まえ、
主権者たる個々人が、自身の自然権と安全を守るため、国家(=社会)を組織するというもの。
したがって、ロックの社会契約論は、言うなれば国民主義であり、国民の自然権が最も優先される。
前回の表現で言えば、「Americans First」がロック的な国家観であり、社会契約論に相当する。
 
 
反対に、ルソーの社会契約論は、ホッブズの自然状態に対して批判的であり、
人間は様々な障害を解消するため社会を組織するが、結果的に人間本来の自然な感情を失ってしまうというもの。
こうしたルソーの人間観は、ホッブズが自然状態を「万人による万人の闘争」と主張したことに反対するものだ。
ルソーによれば、人間が闘争を行う理由とは、人間が他の人間に関心を抱き社会を形成してしまったからである。
つまりルソーは、社会化される以前の人間とは、自らの幸福をただただ嫋やかに追求し続ける純朴な存在であり、
そもそも他者なる存在が彼の世界には存在しないため、他者を虐げるような闘争心は存在し得ないと考えた。
 
もっとも、一見すると、これは素朴な性善説のようにも思われる。
だが、実際のルソーの議論は、通俗的な性善説よりも幾分か複雑な構造を採っている。
ルソーの議論が複雑点とは、一方で、人間は社会(=人間関係)を形成するがゆえに闘争状態に転落するが、
他方で、その社会は、自然状態の人間が「憐憫の情」を持つからこそ発生するものと見做されている点だ。
つまり、人間は本質的に「憐憫の情」を持つからこそ社会を形成するが、それが結果的に闘争状態を招き、
そして、最終的には人間の自然な感情(=憐憫の情)を疎外してしまうというアポリアな主張である。
 
なお、この際に言われる「憐憫の情 pitié」とは、例えば、目の前で子どもが躓いて倒れてしまった時、
思わず「あッ!!」と声を上げてしてしまうような、そうした衝動的に湧き上がる憐れみの感情を指す。
もちろん、実際にその人が駆け寄って子どもを助け起こすかは分からない。そこにはある種の社会的な思考が介在する。
例えば、ナチスドイツ政権下において、ユダヤ人の子どもが転んだとしても、
私たちはなかなか現にその子を助け起こそうとは思えないだろう。
それでも、思わず「あッ!!」とは反応してしまうはずだ。
その情動が人間の自然状態 ――「憐憫の情 pitié」である。
 
 
 
ルソーはこうした人間観を前提に、非常に大胆な社会契約論を打ち立てる。
 
まず一方で、ルソーにとって社会(例えば絶対王政)とは、人間を自然な状態から疎外する不幸なシステムであった。
しかし他方で、ルソーにとって社会とは、人間が讃えるべき「憐憫の情」を持つからこそ、構築されるシステムでもある。
 
したがってルソーは、単純に社会契約を批判するのでもなければ、肯定するのでもなく、
一方で時には虐殺をも行う社会の闘争状態と、他方で社会を逆説的かつ無意識的に支える自然状態を同時に認め、
その両者の混在こそが「人間社会」であると説いている。もちろん、当時の社会は余りにも闘争的であったため、
ルソーは抑圧された「憐憫の情」に代表される人間本来の意志の国家において体現せんとして、
「一般意志」なる謎の概念を提唱した。それは、個々人の意志を集合した多数決でもなければ、
独裁者による単数的な意思決定でもない、言うなれば「共同体の意志」として定義されている。
 
そのため、前回の文脈に沿って言い換えれば、ルソーとはある種の共同体主義者であり、
よって、「America First」がルソー的な国家観であり、社会契約論だと言える。
そこでは、社会化され闘争状態に陥ってしまった個々人の表層的な自己保存欲ではなく、
人間の自然状態が垣間見せる「共同体の無意識」が意志決定の中心を担うのだ。
 
たとえ、それがルソーの想定した自然状態と異なっていようとも――。
 
 
何せルソーの思考は18世紀のものだ。確かに、人間の自然状態は「憐憫の情」なのかもしれない。
だが、21世紀のこの極大化した社会のなかで、その人間の自然状態が如何に働くかは全く分からない。
あるいは、人間には異なる自然状態があるのかもしれない。もちろん、まず「憐憫の情」が集団形成には不可欠だが、
例えば、その集団規模がある規模を超えると、別の自然な感情が湧き上がったとしても不思議ではないだろう。
 
その意味で言えば、私たちは人間の自然状態について、今一度考え直さなければならない時代を迎えつつある。
 
 
 
 
 
 
◯ アメリカ人主義 と アメリカ主義
 
サラリとまとめる。
 
まず一方で、ホッブズ・ロック的な人間観ならびに社会契約論に基づくのであれば、
社会において第一次的に優先されるべき存在とは、国家の成員にして契約の主体である国民である。
よって、それは「アメリカ人主義」に相当する思想だと言える。だがその際には、前回も指摘したように、
「アメリカ人」はあくまでも「アメリカ人」あるべきで、第一次的に優先される主体は、
決して「国内在住のアメリカ人」に限定されるべきでない。
 
 
次に他方で、ルソー的な人間観ならびに社会契約論に基づくのであれば、
社会において第一次的に優先される存在とは、契約主体の統計学的な総意ではなく、
共同体(または集団)の成立を支える「一般意志」と呼ばれる謎の概念であり、
よってそれは「アメリカ(共同体)主義」に相当する思想だと言える。
 
そして、ルソーを支持する場合、
私たちは「一般意志」への参加権を国民に限定するべきではない。
「一般意志」は、共同体や集団さらにはそれを取り囲む環境を含めた、実に広漠とした理念である。
そのため、その人物が共同体や集団の関係者であれば、それが契約の主体であるか否かに関わらず、
その共同体の「一般意志」に否応なく関わってしまっていると言える。反対に、
共同体や集団に全く所属していないような構成員(在外邦人)の意志は、
ロック的な社会契約論と比べて、相対的に影響力を弱めることとなる。
 
 
「Americans First」と「America First」の違いを哲学的に整理すると、
以上のようにまとめることができる。
 
 
 
 
 
 
◯ 友敵理論
 
その上で言えば、トランプ的な「America First」は、
ロック的な社会契約論でもなければ、ルソー的な社会契約論でもない。
強いて言えば、その混合物であると言うべきだろうか。
 
いや、それよりも「国内在住のアメリカ人主義」に最も近しい理念とは、
シュミットが『政治的なものの概念』や『パルチザン』で唱えた「友敵理論」だろう。
つまり、敵の存在こそが「われわれ(=友)」を成立させるという政治理論だ。
ちなみに、これはナチス政権の理論的主柱として有名である。
もちろんそれに限らず、あらゆる政治状況で有効な理論だが。
 
それゆえ、トランプ現象を全体主義化に喩える人々の感情も、まぁ分からなくはない。
が、やはりそれは基本的には誤った認識だろう。
 
とは言いつつも、ここで友敵理論の詳細を論じるつもりはない。
また、友敵理論には賛否ともに数多の議論が存在するが、その各論に踏み込むつもりはない。
なぜならば、トランプ的な「America First」は、通俗的な「友敵理論」をも逸脱していると考えられるからだ。
 
 
 
 
 
 
◯ 友と敵のあいだで。
 
近年、友敵理論が弱体化しつつある最も大きな要因が、グローバル化だ。
すなわち、政治的には「敵」であっても、経済的には「友」であるという矛盾した状況が、
友敵理論を複雑化させているのである。
 
いわゆる冷戦時代までは、政治的な「敵」は、経済的な「敵」と同義であった。
ところが、冷戦崩壊後の国際社会は、「友」と「敵」の境界線が崩壊しつつある。
あるいは、「友」と「敵」の境界線が多重化しつつあると言われている。
この「政治」と「経済」という友敵のコンフリクトこそが、
近年の政治状況を複雑化しているのだ。
 
前述の「在外邦人」「在外アメリカ人」の存在も同様の問題系にある。
国土を超えて経済活動を行う人々は、グローバル資本主義の申し子となることによって、
単純であるがゆえに魅力的であった政治的な「友敵理論」を敢えて複雑化し、
「友敵理論」が抱えていた危険性を弱体化していると言える。
他にも国際的な観光客の増加なども同様の効果を持っている。
 
 
こうした現在の国際社会が直面している主たる課題とは、
「政治的な敵」と「経済的な友」という矛盾した状況との折り合いである。
例えば、オバマ政権や現EU政権(そして日本も)この矛盾の緩和に尽力していた。
 
それに対して、トランプ現象と呼ばれる事態が示すこととは、
「政治的な敵」と「経済的な友」という矛盾した状況の解消を、
「一般意志」は投げ捨てたいと望んでいるということだ。
 
私たちは「分かりやすい世界」に戻りたいのである。
 
 
 
トランプ的な「America First」を、
ロック的でもなければ、ルソー的でもなく、
さらにはシュミット的ですらないと言った理由はここにある。
 
トランプ的な「America First」は、「国民主義」を装いながら、
実際にはその言葉が示す通り「Americans First」ではなく、「America First」――
すなわち「共同体(国家)主義」を目指しており、現にそれは「契約主体の権利」の保護ではなく、
「一般意志」をこそ、的確に現勢化し続けている。そして、ここで現勢化する「一般意志」とは、
グローバル化に従い崩壊しつつあったシュミット的な「友敵理論」の復権であり、その意味において、
トランプ的な「America First」は、経済的な下部構造(例えば国際化するアメリカ国民の存在)を全く無視しながら、
「Americans First」ではなく、「America First」――すなわち共同体(=America)の「一般意志」を、
正確に実現しようとしていると言えるのである。
 
より手短に換言すると、トランプ的な「America First」とは、
シュミット的な「友敵理論」を、ロック的な「国民主義」で偽装しながら、
ルソー的な「共同体主義」と「一般意志」にその身を委ねることで、強引に復権した理念だと言える。
ただし、そこからはロック的な自然権の保護も、ルソー的な憐憫の情も排除されてしまったが――。
 
 
これを名付けるならば、「代替的(Alternative)・友敵理論」とでもするとアイロニカルだろうか。
それは決して「ポスト・友敵理論」ではない。「ポスト・友敵理論」とは、グローバル資本主義によって、
政治的な友敵関係が、経済的な友愛関係によって緩和される期待を示した言葉であった。
したがって、シュミット的な「友敵理論」を維持しつつも更新した今回の現象は、
「代替的・友敵理論」と皮肉を込めて呼ぶのが相応しい現象であるように思われる。
 
 
 
 
 
 
◯ エリート主義的民主主義
 
以上を踏まえ、少々希望的な話題を展開すると、
ナチス政権の政治哲学的な主柱には、シュミットの友敵理論の他にもうひとつ、
シュンペーターによるエリート主義的民主主義という理念が存在している。
 
シュンペーターが唱えたエリート主義的民主主義とは、
一強多弱な政治状況が、如何にして政治的な正当性を保障しているのかを検討した政治理論である。
内容を簡潔に言うと、二大政党制のような明白な対立関係がなくとも、エリート間の権力闘争が、
結果的に与党政権内の意志決定を中庸なものに修正するだろうというものだ。
日本人にとっては、55年体制以後の派閥政治が分かりやすいだろう。
 
 
ここで、シュンペーターの唱えるエリート主義的民主主義の興味深いとは、
それがシュミットの唱える友敵理論とは、基本的には対立する理論である点だ。
 
つまり、シュミットの友敵理論は、友と敵の境界を明白にすることで友の団結を強め、
それと同時に、政治的な意見対立をヘーゲル的な弁証法に従い止揚することを目的としていたが、
シュンペーターのエリート主義的民主主義は、テーゼとしての友のなかに多層性を認める議論なのである。
シュンペーターに従えば、シュミットが期待した弁証法的止揚は、友同士の緩やかな闘争により弱体化され、
友と敵の熾烈な対立が生み出すはずであった劇的な止揚は、穏やかな対立として不発することとなる。
 
そしてシュンペーターは、如何に扇動的に友と敵を分けようとも、友という集団もまた分派し、
友でありながら敵である状況が、友という集団のなかで発生してしまうため止揚は失敗に終わるが、
しかし、その止揚の失敗こそが、友という集団の意志を中庸に導くと唱えるのである。
 
 
もっとも、ナチス政権においてシュンペーターの理論は、
単に独裁を肯定するための都合の良い理屈として利用されるに留まってしまったが、
幸か不幸か、良くも悪くも、戦後の日本は正しくシュンペーター的な民主主義を展開してきたと言える。
 
そして、いま再びシュミット式の「友敵理論」が復権しようとしつつあるからこそ、
この「友敵理論」を肯定しつつも、内部から破壊するシュンペーターな民主主義理論が鍵を握っているのではないか。
現に、たとえそれが如何に情けない姿であろうとも、いま日本のシュンペーター主義は、
トランプ的な「America First」と新しい関係を築こうとしているように見受けられる。
 
 
 
 
 
 
◯ 韻律
 
こちらはどうでも良い話だが、トランプ大統領のリズムについての補遺。
 
例えば、「We Make America Great Again」という言葉は、
弱強五歩格の女性終止形(Feminine Ending)になっており、
通常の弱強五歩格よりも余韻が残る仕上がりだ。
 
反対に、「Make America Great Again」や、
大統領就任演説で使われた「We Will Make America Great Again」などは、
強弱四歩格や強弱五歩格になっており、通常の韻律よりも力強い印象を与える。
 
 
一方で、上述してきたように、
トランプ大統領の標語が、その理念の本質を表していると言えることは確かだが、
他方では、もうひとつに、こうした英語としての韻律の問題も深く関わっていると考えられる。
「Americans First」や「Make Americans Great Again」では、さすがに韻律が悪い。
 
 
そのため、確かにトランプ大統領の英語は小学生のような英語かもしれない。
また、アメリカ人らしいユーモアも殆ど見受けられない。
だが、韻律だけは確実に優れていると言え、そして、
それは良くも悪くも素朴に重要なことである。
 
 
 
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4.
2017/02/08(下げ記事) 雑談 > 英語から取り残された私たち + 国民と住民の差異をめぐって。」
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いや、何というか、なかなかにすごい事態だなと。
別に特定の何かを擁護するつもりはありませんが、
バランスはとろうかと。素朴に。
 
 
 
 
 
◯ 英語検索 と 翻訳。
 
近頃、海外の反応をはじめ、
英語に触れて英語を楽しもうということ書いていた建前、
思ったことを簡単に。
 
 
うーむ。そうですねー。
こう、やはり日本語ブログの英文和訳で英語を読むのは良くありませんね。
それはアフィブログに限らず、英語で語られたものは、可能な限り英語で読むべきだと痛感しました。
 
英語検索の魅力は、普段私たちが検索しないような検索ワードと偶発的に出会う可能性を高める点にあります。
例えば、あるアニメの感想を検索した場合、そこにはノリと勢いで楽しんでいる人々から、考察に没頭している方、
あるいは、辛辣な意見を述べている方に、殆どアンチと変わらないことを叫んでいる方と、様々な感想がヒットします。
日本語検索ではアフィブログを筆頭に硬直化しがちな検索結果が、言語を変えるだけで百花繚乱、
私たちが日本語の検索では出会うことが難しいような感想と、
比較的容易に出会うことが可能になるのです。
 
反対に、日本語検索でヒットした翻訳ブログは、所詮、日本語検索でヒットしたブログです。
私たちは、いつも通りの検索結果を求め、いつも通りの見解や主張に、ただただ耽溺していくのみです。
 
 
というわけで、最近は海外の反応を集めたアフィブログも増えつつありますが、
翻訳された英語を読むのではなく、可能なかぎり、英語で情報を検索することが重要だと思います。
 
そして、もちろんこれはアニメの反応に限った話題ではありません。
米国の話題ならば、日本語検索と翻訳に籠城するのではなく、
是非とも英語での検索を、と素朴に思いました。
 
 
 
 
 
 
◯ 東京駅 と 新宿駅。
 
閑話休題。
 
ご存じの方も多いと思いますが、
1月末から2月の頭にかけて、中国では旧正月ということで、
多くの観光客が日本を訪れていました。いわゆる春節連休の爆買いですが、
そうした中国人観光客に対応するためか、この期間、新宿駅では日本語だけではなく、
中国語でも構内アナウンスを実施しています。というか、していたようです。
私も今年気が付きました。
 
 
他方で、東京には多くの外国人たちが、
様々な国からビジネスや観光などの目的で短期滞在しています。
ところが、未だに東京駅や主張な路線ですら、臨時の構内アナウンスや車掌によるアナウンスは、
日本語のアナウンスしか実施しておらず、国際化の対応が非常に遅れていると感じます。
 
先日も、所用で新宿から東京駅に向かう際、
東京駅で緊急停止ボタンが押され、神田で立ち往生する羽目になったのですが、
状況連絡や乗り換えの案内等を知らせるアナウンスは、日本語のみのアナウンスでした。
そしてその際、不幸なことに、東京駅に向かうアメリカ人のビジネスマン(あとから知りましたけど)が、
その日本語のアナウンスを聞き取れず、車内を右往左往するという状況に遭遇しました。
見るに見かねて状況の説明と乗り換えの必要性を伝えましたが、何というか、
せめて英語でだけでもアナウンスは行うべきでしょう。
特に、東京五輪を控えている東京都ならば尚更です。
 
五輪まであと三年。あらゆる不測の事態(例えば緊急時の避難誘導等)を想定し、
車掌をはじめ鉄道関係者の英語対応は必須事項であるように思われました。
 
 
その意味で言うと、基本的に私は東京五輪に賛成の立場です。
それは経済効果云々というより、例えば、今回の一件が示すように、
私たちが普段、何の不都合も感じていないような出来事も、
そうではない人々にとっては大きな障害になっていることは多々あります
 
例えば、車道と歩道を分ける小さな段差も、ベビーカーを押す上では非常に大きいな障害になりますし、
高齢者にとっても転倒のリスクを大きく上げる弊害になっています。前者は経験談、後者は専門分野。
 
英語化はもちろんのこと、五輪をきっかけに東京という街が、
より過ごしやすく、より先進的な都市に発展することを願うばかりです。
先進性とは、何も工業化や経済的発展だけによって決定される問題系ではありません。
東京五輪を契機に、私たちが普段気が付かないような様々な障害が、
少しでも改善されることを期待しています。
 
 
 
 
 
 
◯ 国民 と 住民。
 
こちらは、何というか、あまりにも素朴すぎる話題なので、簡潔に。
素朴というか、政治哲学ではよく話題になる問題ですね。
いや、Brexitを受けて破綻しつつありますが。
いずれにしろ、常識的な問題認識です。
 
 
一般的に言って、国民と住民は必ずしも一致するものではありません。
特にグローバル化した資本主義社会では、国民と住民の乖離は加速しています。
国内に住む人間は、必ずしも国民だけによって構成されているわけでもなければ、
反対に国民とは、断じて国内に在住している主権者のみを指す言葉ではありません。
国家は、国内在住の国民だけではなく、「国民」を保護する義務があります。
  
 
ところがグローバル化した社会は、この義務にひとつの問題を突き付けます。
すなわち、かつて国民国家の国民とは、その国内の住人である主権者を指す言葉でした。
しかし、グローバル化は人間の移動を自由化したため、国民はその国の国土を超えて存在するようになったのです。
これが国民と住民の乖離です。国外で暮らす或いは国外に滞在する「国民」の存在の登場。
国家は国民の権利と安全を守る際、こうした在外邦人の存在を考慮する必要が生じたわけです。
 
こうした問題を考えるうえで分かり易い例が、例えばこの国の場合は、集団的自衛権の容認をめぐる議論ですね。
ちなみに私は、以上のようなグローバル化(国民と住民の乖離)を念頭に、集団的自衛権の容認は妥当だという立場です。
もっとも、手続き論的な問題も含め解釈改憲には反対の立場であるため、現に改憲すべきだという立場でもありますが。
なお解釈護憲は論外。それこそ、立憲主義の理念を揺るがす方針に他ならない。

 
 
いずれにしろ、私たちと現代の国民国家は、グローバル化に伴い、次のような問題に直面していると言えます。
つまり一方で、あるA国にとっては、A国外に在住/滞在する国民aさんも、紛れもないA国民のひとりですが、
他方で、そのaさんが今在住/滞在しているB国家にとっては、aさんはひとりの住民(≠国民)にすぎず、
B国が批准している国際法の範囲内でしか、B国はaさんに対する保護の義務を負っていません。
 
ではこの時、自国民の権利と安全を守るべきA国は、B国にとっては住民にすぎないaさんの権利と安全を、
如何にして守ればよいのでしょうか。それも、A国の法の支配が及ばないB国内のaさんの権利と安全を。
 
という問題が、グローバル化する社会状況(国民と住民が必ずも一致しない状況)を受けて、
2000年代後半から10年代の現在まで盛んに論じられていた具合です。
そして言うまでもなく、この際に必要なものとは、
決して排外主義ではありません。
 
 
が、簡潔にと言ったため、各論には踏み込まず簡潔に。
何せこのような議論は政治哲学では極めて平易なものですから。
 
ともあれ、以上のような国民と住民をめぐるコンフリクトを考慮して言えば、
例えば、国内在住の国民の権利と安全しか考慮していないような政策は、
近代国家の政治政策としては、まぁダメでしょう、素朴に。
これだけ経済活動がグローバル化していれば尚更です。
 
 
いや、一応、国民と住民のコンフリクトを分かりやすく直感的に言い直すと、
要するに、仮に国家の主たる目的を、ホッブズやロック型の社会契約論で思考すると、
「America first」ではなく、「Americans First」を唱えるべきだということです。
ちなみに、私はホッブズやロックではなくルソーの社会契約論を支持しているため、国家の主たる目的が私の意見とは異なりますが、
一応、上述した国民と住民のコンフリクトは、ホッブズやロック式の社会契約論に合わせた問題提起になっています。

 
 
 
と同時に、私たちもまた、在外邦人の権利と安全を鑑み、
様々な「住民」への応対を考えるべきでしょう。
 
とりあえず、構内アナウンスは複数の言語で流すか、最低限、
困っているEnglish Speakerがいたら助けられる程度の語学力は、
それぞれの国民が有していても良いと思う。それに大凡の場合、
この程度の手助けならば、大それた語学力は必要ないでしょう。
 
いや、さすがにこの例は、半径5mの話題に回収しすぎたきらいが否めないため、
敢えて大きく語ると、例えばこの議論は、地方自治体レベルでの外国人参政権の問題など、
基本的には、国家観のグランドデザインに大きく関わる本質的な問題系として議論されています。
 
 
 
 
 
 
 
 
◯ 翻訳、補遺。
 
こう、これはもう素朴にリテラシーの問題なのだと思うけれども、
普通、一方のスピーチを聞いたならば、他方のスピーチも聞くものよね。
実際に、例えば敗北後のスピーチなどは、なかなか良いスピーチだったと個人的には思っている。
 
が、ともあれ、かつてインターネットに期待された効果は、こうしたリテラシーレベルの向上にあった。
しかし現在、その期待は残念ながら裏切られ、私たちは知りたいことしか知ることができない時代を迎えつつある。
 
まぁ、大変なことだと思う。
 
 
 
が、繰り返しになるが、こうした状況を受けてなお、
従来通り「正しいことだけ」を言い続けることに、もはや価値はない。
もっとも「正しくすらないこと」のほうが圧倒的多数だが。
 
現実は明らかに正義ではなく享楽を優先する時代に至ってしまったのだから、
それはそれとして、享楽の時代に残された一筋の可能性を、私たちは堅実に育てていくべきだろう。
そういうわけで最近は、全ての可能性が尽くされた跡に生起する可能性が肝要だと書いていた具合。
 
 
 
 
ちなみに、今回のマスコミが余りにも愚昧であったことに関しては異論ない。
 
実際の報道内容の内容については、今更批判をするつもりなどは毛頭ないが、
少なくとも、トランプ陣営が勝利する瞬間をヒルトンホテルから中継した日本のテレビ局が、
わずか1局しかないというのは余りにもお粗末である。余りに余りであるため、
これ以上の言葉は出てこない。
 
他方で、だからと言って、
英語ベースで――決して日本語翻訳ではなく――情勢を追いかけていた一般大衆はどの程度いたのだろうか。
そちらもそちらで、まぁ、言うに及ばないことだと思う・・・。
 
 
 
 
 
そして、予定よりも大幅に直截的な内容になったため下げ記事になります。
 
 
 
 
 
 
PS:
 
ちなみに、こちらは大した問題ではないけれども、
「Alternative Fact」を「大本営発表」で喩えるのは、
さすがに戦前・戦中世代に対して失礼な比喩だと思う。
 
いや、ユーモアなのは分かっているけれども、
「Alternative Fact」を「大本営発表」で喩える行為こそが、
正に「Post Truth」的な振る舞いなので、いまいち意図がわからなかった具合。
 
まぁ、大した何かではないけれども、バランス的な意味合いでの何か。
 
 
 
 

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=>古記事5. 2017/02/06 鉄血のオルフェンズ 42話:感想 + 前回の補遺。
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