フェティアの日記/書き物

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17/02/25
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12017/04/122017年アニメ..冬アニメ補遺 ―― メイドラ、オルフェンズ、クズの本..
22017/04/012017年アニメ..2017年 冬アニメ 感想 9 。..
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1.
2017/04/12 2017年アニメ > 冬アニメ補遺 ―― メイドラ、オルフェンズ、クズの本懐。」
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冬アニメ補遺。
 
春アニメは殆ど見ていません。
毎年のことですが、年度始めは大変です。
 
 
 
 
 
 
◯ 小林さんちのメイドラゴン
 
なんと。予想外の原作改変だ。
うーむ。さすがに素朴に肯定することは困難を極める。
 
が、個人的な印象としては、京アニ側も原作のテイスト――
すなわち、人間とドラゴンの対立構造の抽出に失敗したことを自覚していたのだろう。
したがって、敢えてトールの葛藤を「人間的な悩み」に回収したように見えた。
 
こうした改変については、原作厨のようなことを宣っていても意味が無いため、
京アニなりの反省的な自己認識ということで、事を収めるのが常識的な判断であるように思う。
 
仮に、全てのアニメ制作会社が京アニ体制になってしまった場合、
恐らく日本アニメの多様性は消滅してしまうのだろう。が、しかし、幸か不幸か、
それは現実的な将来像ではないため、こうした「暴力」もまた、
京アニの魅力として転倒的に評価すれば良いのではないだろうか。
 
少なくとも、京アニ自身が「暴力」に対して自覚的であるかぎり、
それは必ずしも一面的に批判されるべきことではないと思う。
 
 
 
 
 
 
◯ 鉄血のオルフェンズ
 
ふむ。
 
あくまでも個人的な感想ではあるが、先入観を排除して見るかぎり、
ある偽善的なイデオローグの元で、自身の力を万能的に奮うという人間関係――
すなわち、「ラクス―キラ&アスラン」の関係性とは、「オルガ―ミカヅキ」ではなく、
「ラスタル―ガエリオ&ジュリエッタ」によって代替されているのではないだろうか。
  
 
少なくとも、オルガは他の2人ほど、偽善的でもなければ欺瞞的でもない。
彼は良くも悪くも純粋だ。また同様の純粋さは、恐らくギルバート・デュランダルにも垣間見られる。
確かにデュランダルも偽善的なイデオローグだったが、その根本的な動機は、良く言えば純粋な、
悪く言えば子どもっぽい動機であった。彼はラクスやラスタルよりも誠実で無垢な人間であり、
彼のそれはイデオロギーと言うより、理想と言うべきものだろう。オルガのそれも同様である。
 
よって、ミカヅキを始めとする鉄華団の敗北を、ラクスやキラに投影する類の議論は、
『SEED DESTINY』へのアレルギーに基づく願望バイアスが多分に含まれている嫌いは否めない。
素朴に作品を見つめる限り、『オルフェンズ』においてラクスサイドを象徴する勢力は、ラスタル陣営であり、
ザフト陣営を象徴する勢力が、鉄華団になるのではないだろうか。
 
 
また、マクギリスに関しても、
象徴的な力(=バエル=フリーダム)に固執した点において、
キラ・ヤマトよりも、シン・アスカのほうに親和性が高いように見受けられる。
もちろん、マクギリスが象徴的な力(=バエル)を強迫的に渇望して内在化させようとしたのに対して、
シンは象徴的な力(=フリーダム)を強迫的に憎悪して排除しようとした点は、対照的な構図を為していると言える。
だが、マクギリスとシンの間に現れる強迫性の差異とは、「力」に対する両面性を示しているにすぎず、
彼らの根源的な欲望は、基本的にはその本質を同じくするものなのではないだろうか。
  
反対に言って、キラにとっての「力(=フリーダム)」とは、目的を達成するための一手段にすぎなかった。
「力それ自体」を自己目的化してしまった他の2人とは、良くも悪くも、「力」との関係性が異なっている。
 
 
こうした作品に対する中立的な認識を前提にして初めて、『オルフェンズ』という作品が、
『SEED DESTINY』という作品に対して如何に批評的であるかが、正確に論じられるはずだ。
 
 
 
 
一方で『オルフェンズ』は、自らの実存的な問題と世界の制度設計を短絡接続するような、
シンたちの実存主義的なロマンチシズムを、『SEED DESTINY』よりも一層アイロニカルな形で批判している。
 
マクギリスがそうであったように、自らの実存的な問題意識にのみ基づき、世界秩序という中間項に関わることは、
極めて短絡的な思考であり、一般的に言って批判されなければならない。デュランダルの政策にも同様のことが言える。
そして、『SEED DESTINY』は、こうした実存的な問題意識と中間項の短絡接続をアクロバティックに批判するため、
敢えてラクスやキラの理念から具体的な中間項(=政治的な汚さ)を原理主義的なまでに排除している。
これがいわゆるセカイ系と呼ばれる文学上の技法だ。
 
だが他方で、『オルフェンズ』はそうした文学的な技法が抱える欺瞞を放置しない。
『オルフェンズ』は、『SEED DESTINY』が技法的に排除した中間項の問題(=ラスタルの汚さ)を過剰に描くことで、
セカイ系的な技法(=敢えて中間項を排除する文学的な技法)の臨界点を的確に暴き出している。
 
 
 
以上のような意味において、『鉄血のオルフェンズ』という作品は、実に批評的な作品だ。
シンやデュランダルのような実存主義的ロマンチシズムに対しても批判的であれば、
キラやラクスに代表されるセカイ系的な技法の臨界点にも真摯に向き合っている。
『オルフェンズ』は、それら2つの問題系に対してともに批判的な態度を採りながら、
と同時に、その2つの問題系に遺された僅かな可能性の残滓を仄かに描き出した作品だと言える。
 
それゆえ、本作がある種のエンターテイメントとして評価されることは期待できない。
なぜならば、『オルフェンズ』という作品は、批評書や思想書に近い構造を有しており、
そして不幸なことに、現在の消費環境において、こうした作品が評価されることは考えづらいからだ。
 
敢えてメタ分析的かつセンチメンタルな愁嘆を言えば、この消費環境の枯燥をこそ、
『オルフェンズ』はその露悪的なリアリズムで以って正確に表現しているのだろう。
 
 
 
 
もちろん、最も望ましい在り方とは、エンターテイメント性と批評性の両立である。
そして、『オルフェンズ』という作品は、この両立に間違いなく失敗している。
 
また、作品世界の設計も非常に甘い。
いや、例えば、少年兵の問題と日本ヤクザの抗争を同一視することはPCに反すると言った、
一見すると「正しそうな言葉」は、凡そ二次元と三次元の区別が付かない愚鈍なモノであるため、
相手にする必要はない。少年兵に対する差別が云々と言った類の言説も同様である。
 
 
だが、仮に中間項を排除するセカイ系的な技法に対して反省的であるならば、
例えば、国民国家の問題などは回避するべきではなかったと思う。
 
確かに私たちは、世界大戦の時代ではなく、世界内戦の時代を生きている。
したがって、ヤクザの抗争(=内戦)をモチーフにした選択は必ずしも誤りではない。
少なくとも、70年代以前の任侠映画と比較するような言説は、余りにも現実世界に対して鈍感なものだ。
しかし、実際の世界内戦は、如何に内戦的であるとは言え、それはいわゆる大国と呼ばれる国民国家と無縁でなく、
むしろ世界内戦は、国民国家や近代主義の果てに存在する問題系である。よって、登場する体制を経済圏にのみ限定し、
世界内戦の問題系から近代国民国家が抱える様々な課題を排除してしまった点は、残念ながら批判されて然るべきだ。
 
2017年の現在の国際社会が直面している事態とは、
例えば、『ガンダムOO』が描いたような経済圏同士の抗争とは明らかに一線を画している。
この点においては、ネグリ=ハート的な<帝国>と近代的な国民国家の二層問題を扱った『SEED DESTINY』のほうが、
明らかに優れていると言わざるを得ない。
 
 
 
繰り返しになるが、
本作の意義深さとは、『SEED DESTINY』を反省的に思考し、
セカイ系的な技法の臨界点を暴いたことにある。だがしかし、だからと言って、
中間項に関わる問題をアクチュアルに展開しているかと言えば、決してそうではない。
 
恐らく私たちが『オルフェンズ』に感じる物足りなさとは、それが現状を素朴に批判し、
未来の可能性を神秘主義的かつ朧げに描くに留まってしまったことに由来するのだろう。
 
残念ながら『鉄血のオルフェンズ』は、
セカイ系的な技法のオルタナティヴを示す地点までは至らなかった作品だと言わざるを得ない。
 
 
 
 
 
 
◯ クズの本懐
 
大きな肯定のもとに書かれた文章であることは、先に断っておきたい。
 
 
そのうえで書くと、
個人的には、本作はリア充のリアルを描いた作品というよりも、
むしろ非リアの願望にこそ、強い親和性を持った作品だという印象だった。
分かりやすく言うと、きっとリア充も本当は楽しくないはずだ、と言った類の何かとの親和性だ。
何せ、最後にあらゆる欲望の中心点(=茜先生)を獲得するのは、実にオタク的な「お兄ちゃん」なのだから。
 
 
「お兄ちゃん」の性欲望は正しくオタク的である。
すなわち、「お兄ちゃん」の性欲望は、良くも悪くも一方的なのだ。オタク的な性欲望の特徴とは、
仮に彼らがどれだけ特定のキャラクターを愛したとしても、その二次元のキャラクターたちは、
決して具体的かつ現実的な手段でオタクたちに愛情を与え返さないという点にある。
オタクたちは、残酷なまでに一方的な愛情をキャラクターに注ぐ存在なのであり、
それは実に贈与的な振る舞いだ。
 
そして、茜先生を動かしたものとは、こうしたオタク的な「贈与」の姿勢である。
彼女は、欲望という「交換」図式のなかでしか生きてこなかったからこそ、
一切の返済を求めない「お兄ちゃん」の「贈与」の姿勢にほだされたと言える。
 
 
 
さて、こうして振り返ると、本作の結末とは、呆れるほど楽天的である。
本来であれば、成就しないこと(=一方向性)をこそ本質に持つオタクの愛が、
女性(=茜先生)の「傷」を媒介にして、歪にも成就してしまうのだから。
それは、茜先生が「欠落」を持っていたからこそ、成就した恋愛なのである。
それを歪と言わずに何と言えば良いのか。
 
 
 
かつて、オタクの可能性とは、ある種の不-可能性にこそ宿っていた。
その意味で言うと、もはやオタク的な可能性とは、「お兄ちゃん」たちの中からは失われ、
むしろ、麦や花火たちのなかに移り住んで行ってしまったのかもしれない。
 
私たちは今、性関係について、それも動物的な性関係の意義について、
もう一度考え直さなければならない地点に立っているように思われる。
 
 
例えば、避妊とは確実なものではない。
茜先生や麦や花火が、如何に強力な精神的断絶のもと性関係に及んでいたとしても、
時に、動物としての人間の身体は、その精神的な断絶を無力化することがある。
多くの「お兄ちゃん」たちが想像する以上に、私たちの精神は、
動物としての身体からの叛逆に脆い存在なのだ。
 
精神とは、近代以降の世界において、常に必然性の物語を好む存在であるが、
翻って動物としての身体は、精神が作り上げる必然性の物語のなかに、偶然性の暴力を理不尽に放り込む存在である。
つまり、「お兄ちゃん」が想像する「浮気」には、動物としての身体がもたらす「偶然性」――
非嫡出子(=私生児)が産まれてしまうこと――が欠落しているように見える。
 
よって、敢えて言えば、「お兄ちゃん」の精神は、この「偶然性」の叛逆に直面した時、
初めてオタク的な可能性、すなわち了解の不-可能性に回帰することになるだろう。
恐らくそれは、作中で麦や花火が直面したような了解の不-可能性に近い不-可能性だ。
 
 
あるいは、もし「お兄ちゃん」の精神が、そうした身体に基づく偶然性すらも退けるほど強靭なものだと言うのであれば、
それこそ、その精神に対する魔術的な羨望は、かつてのオタク論が痛烈に批判した全体主義の土壌となるだろう。
 
その意味で言えば、身体がもたらす葛藤を捨てた花火の結末は、
精神的単独者であることを過剰に美化した結末であるように思われてならない。
 
それは、かつて美少女ゲームで男性のキャラクター(主人公)が、
悲観的に担っていた役割に他ならない。そして、この精神の美化を破壊するものこそが、
女性との生殖行為(=男女の非対称性)に基づく「偶然性」の到来であった。
 
 
 
 
.

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2.
2017/04/01 2017年アニメ > 2017年 冬アニメ 感想 9 。」
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冬アニメ感想9。
 
基本的にラストになる予定。
『メイドラゴン』と『オルフェンズ』のみ、補遺として書くかも。
 
 
 
 
 
◯ 小林さんちのメイドラゴン
 
どうやらイルルとの戦いが最終話になるようだ。
盛り上がりを考えれば妥当な判断だろう。
 
作品全体に対する感想は既に書いた通りであり、
恐らく最終話の出来によってその評価が大幅に変わることはないと思う。
 
が、少しだけ愚痴を書くと、
以前も書いたように、京アニ版の『メイドラゴン』は、その特徴的なキャラデザのため、
「ドラゴン」としてのトールを描くことに失敗し、原作の『メイドラゴン』よりも、
「人間―ドラゴン」の対比構造が極めて薄弱な作品に仕上がってしまっている。
そして、率直に言って、「人間―ドラゴン」という対比構造が際立たない現状のまま、
本作『小林さんちのメイドラゴン』がイルル戦を迎えるのは残念だ。
 
こうしたキャラデザや演出の画一化、またそれに伴う原作とのコンフリクトは、
自社に所属するアニメーターを制作の基軸とする京アニ型の制作体制の弊害と言わざるを得ない。
もっとも、この画一化(=京アニ化)は、例えば『響け!ユーフォニアム』などでは、
原作が内含していたある種の「痛さ」を、良くも悪くも薄めていたと言える。
しかし、今作『小林さんちのメイドラゴン』に限って言えば、
原作の京アニ化という暴力は、基本的に悪い方向に働いていたように見受けられる。
 
 
 
 
 
 
◯ 昭和元禄落語心中
 
ジ・オリエンタリズムとしか評価のしようがないため、うん、まぁ、としか。
オリエンタリズムの暴力性に無自覚・無批判な商業戦略を肯定することは、さすがに困難を極める。
 
もちろん、例えば『火花』をめぐって舞い上がった大衆的で俗流的な欲望が、
「文学―お笑い芸人」という構造から「落語―アニメ」という関係性へと場を変えて踊った作品と評することは可能だろう。
だが、そうした欲望を肯定的に価値転倒しようと言う想いも、残念ながら私のなかには存在していない。
 
それを評価する人が評価すれば良い作品だと思う。
 
 
 
 
 
 
◯ ACCA 13区監察課
 
個人的には、なかなかに衝撃的な結末だった。
 
体制に対する不満の捌け口として、
ネグロイドの革命心をコーカソイド(とモンゴロイド)が道具的に利用しつつ、
最終的にはネグロイドたちが有していた経済的な影響力を無力化するという結末は、
兎にも角にも「衝撃的だった」という言葉しか出てこない。
 
もちろん、アラブの春が失敗した民主化運動であり、
いわゆる第三世界における民主主義の精神が、誤ったモノとして形成されてしまったことは、
作品として描くに値する事実だとは思う。しかし、第三世界における民主主義の醸成の失敗を以って、
先進諸国の消費者たちが、自らの優位性をただ只管に愛撫して終わるという結末は全く予想していなかった。
それも、このような愛撫をそれらしいダンディズムと混ぜ合わせて描き切っただから驚きもひとしおである。
さすがにもう少し「正しい結末」を選ぶと思っていた。
 
 
その意味では、
最終話を受けて、英米圏での評価が急落するのも納得である。
当然の反応だろう。
 
反対に言うと、この結末を以って「正しく」評価を下げた英米圏のオタクたちは、
やはり一定以上のリテラシーを有していると言うに相応しい。英米圏において「人種」の違いをあれほど鈍感に扱うことは、
明白に「正しくない」ことなのだ。素直に私たちは、その「正しさ」と「常識」を学ぶべきだと思う。
 
翻って言えば、
西洋の人々が、『昭和元禄』の纏うオリエンタリズムに対して鈍感であることもまた、仕方がないことなのかもしれない。
『6HP』の評価でも述べたように、西洋にてオリエンタリズムを批判的に認識するのはやはり容易なことではないのだ。
実際にそれは、私たちが「人種の問題」に鈍感であるのと構造的には似ているように見受けられる。
 
 
ふむ。
まぁ、消費に伴う鈍感さを解消することは非常に難しい問題だ。
しかし、こうした鈍感さを暴き出すこともまた、文化・芸術の役割である。
 
そのため、できることならば、アニメを媒介とした「楽しげ」な国際交流が、
お互いの鈍感さや消費のステレオタイプを「楽しく」そして「正しく」暴き出すことを、
今後も仄かに期待していきたい、と個人的には考えている。
 
 
何はともあれ、さすがにこの結末には衝撃を受けたよ。
 
 
 
 
 
 
◯ 鉄血のオルフェンズ
 
おお。
予想以上にアッサリとバエルが敗北し驚いている。
 
一方では、あのような結末でプラモデルの販促になるのだろうかとも思いつつも、
他方では、まぁそのアイロニカルな態度も含めて、『オルフェンズ』らしい決着だったのかもしれないとも思う。
また、48話(オルガの死)に関しては、冗長な演出という印象が否めなかったが、
49話(マクギリスの死)に関しては、それなりに納得できる演出だった。
 
明日の最終話ではどのような結末が待っているのか、それは未だ不明瞭なままだが、
せっかくここまで来たのだ、このまま『オルフェンズ』らしい最後を迎えてもらいたい。
 
 
 
 
 
 
◯ STAR WARS REBELS
 
いや、見ている人がいるのか分からないが、
「Twin Suns」が余りにも革新的であったため軽く紹介を。
作品としても様々な観点を含んだ優作であるため、関心のある方がいらっしゃれば是非。
日本語吹き替えの放送はもう少し先になるため、ネタバレにならないよう気を付けて描きます。
 
が、何はともあれ「Three seconds」には驚いた。
もちろん、「Twin Suns」の構成は、『Episode4』が日本の武士道の影響を受けており、
『REBELS』が『Episode4』に続く作品であることを強く意識した構成であることは明らかだ。
しかし、トレーラーであれだけ煽っていた決着を、まさか「Three seconds」で〆るとは思いもしていなかった。
 
そして、「Twin Suns」の評価は、その終わりも含めて「Best Episode」だとする好評価と、
反対に全く期待を裏切られたという失望で、意見が真っ二つに割れている。
個人的には好評価のほうに一票を投じたいと考えているが、
ショックを隠せない視聴者の気持ちも良く分かる。
 
だが、昨今、CG技術の発展に伴い、冗長で華美な戦闘を好むハリウッド映画が急増しているなかで、
先端的な演出を好んで取り入れていた「STAR WARS シリーズ」が、あの演出を選んだことは意義深い。
もはや『300』や『キング・アーサー』のようなオーバーな映像演出は時代遅れなのだ。
 
 
なお、奇しくもその頃『オルフェンズ』では、オルガが冗長でオーバーな死を遂げていた。
が、しかし、本来『オルフェンズ』のリアリズムとは、あのような冗長な死ではなく、
むしろ「Three seconds」のようなドラスティックな死にあったのではないか。
そのリアリズムは、例えば私たちにギュネイの死を思い起こさせる。
 
うーむ。
最終話の『オルフェンズ』では、如何なる死が描かれるのだろうか。
できることならば、無為に冗長な演出を重ねないで欲しいと願わざるを得ない。
もしくは、いっその事、過剰さのほうに振り切るか。
 
 
 
 
 
 
◯ けものフレンズ
 
既に語るつもりはないと述べたため、多くは語るまい。
 
が、1点だけ注釈を添えておくと、
本作『けものフレンズ』と『動物化するポストモダン』を接続するような考察は、
基本的に誤った議論である、と私は考えている。
 
 
まず理論的に言って、
『動ポモ』にて語られる「動物化」には、ある種の「性化」の意味合いが込められている。
つまり、『動ポモ』という著作は、ハイデガーが語る「現存在」という「無性別」な人間観に対し、
動物的な性衝動を有する「動物としての人間」という人間観を、ひとつのカウンターとして打ち出した作品なのである。
したがって、『動ポモ』は「萌え」を始めとする「性関係」や「性欲望」を肯定的に論じている次第だ。
が、しかし、これ以上『動ポモ』の詳細に踏み込むことは避けよう。
 
ともあれ、これらの議論を踏まえて言えば、
「フレンズ化」が「動物化」とは全く異なる概念であることは既に明らかだろう。
つまり「フレンズ化した動物」とは、「現存在化した動物」のことを意味するのであり、
それは、「現存在の動物化」を説く『動物化するポストモダン』とは、正反対の主張を為す作品である。
現に『けものフレンズ』に登場する「動物たち(=フレンズ)」は、実存的な悩みや成長に耽溺していくのみで、
例えば、東が好むテーマである性関係の非対称性(=散種)などがクローズアップされることは殆どなかった。
 
よって、むしろ『けものフレンズ』は、東の肯定する「性衝動を有する人間」を一切排除した作品であり、
それは「完全に無性化した動物たち」――すなわち「フレンズ」のみが登場する作品だと言える。
 
そして東は、「性関係」をこそ、島宇宙化する閉鎖空間から私たちを脱出させる原動力に位置づけているわけだが、
これを踏まえると、「性」を排除した『けもフレ』は、完全に閉じた「島宇宙」を、見事に作り上げた作品だと言える。
そのため『けものフレンズ』は、東の論じる「動物化」の可能性とは逆の地点に位置した作品で、
むしろ、ある種の「全体性」や「閉鎖性」を本質に有した作品だと言わざるを得ない。
実際に『けものフレンズ』は、海外では全く評価されていないと言って差し支えなく、
その消費の様態は、極めてドメスティックなものに留まってしまっている。
 
 
さて、以上のように、
『けものフレンズ』は、理論的に言っても、商業的に言っても、
実に「島宇宙」的な作品であり、完全に「閉じた作品」である。
 
では、この「島宇宙的な閉鎖性」をどのように肯定すれば良いのか。
私は本作を積極的に肯定せんとする立場ではなく、また恐らくその能力もない。
よって、本作を肯定的に論じている人々には、是非ともこの価値転倒に挑戦してもらいたいと期待している。
 
 
 
 
 

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3.
2017/03/23 2017年アニメ > 雑記 + 2017年 冬アニメ 感想 8 ―― エクリチュールの欲望をめぐって。」
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雑記 + 冬アニメ感想8。
 
 
 
 
 
◯ エクリチュールの欲望。
 
ふむん。
いや、既に分かってはいたことではあるが、
やはりアニメの見方には色々な形があるのだなぁ、と。
 
 
実のところを言うと、
私はクール始めに1話を巡回し、作品の品定めをするようなことは殆どしない。
事前情報を元に、初めから興味がある作品を見て回ってそのまま見続けるか、
周囲や世間で話題になった作品を「途中」から見始めるか、
私の消費の態度は、凡そこの2つに大別される。
 
興味のない作品の1話までをも網羅的に巡回し、消費するか否かを判断することは殆どない。
それほど網羅的に話題やアニメを抱き締めたいとは考えていないのだと思う。
 
 
また仮に、
私たちが「わずか1話」で作品全体の善し悪しを判断できるほどの知的データベースを有しているのであれば、
様々な事後情報よって新たに関心の生じた作品を「途中」から見始めたとしても、
「それ以前」の作品内容は問題なく想像できるのではないだろうか。
 
つまり、充分なデータベースがあるならば、別に「第1話」に拘らずとも、
視聴の判断や作品の内容に関して正しい認識が得られるように思う。
さらに言えば、現代ほどアニメを「あと」から追いかけやすい時代もない。
であるならば、「第1話」を網羅的に巡回して品定めを行う意味はどこにあるのだろうか。
別に判断の起点は、「第3話」でも「第6話」でも「最終話」でも何ら問題はないだろう。
 
そして、敢えて批評(歴史)的なことを言えば、
「第1話」から昇順で視聴する行為が、必ずしも最善ではないことを示したメディアこそ、
「アニメ」だったのではないのか。そう、『涼宮ハルヒの憂鬱』や「時系列のシャッフル」がそれである。
現在の消費環境とは極めて対照的に、ある時期のアニメやオタクは、
「第1話」の特権を破壊することに魅力を発見していたように思う。
 
 
というわけで、「第1話」で作品の善し悪しを判断する優位性をあまり感じない、
というのが個人的な感想である。
 
 
 
 
強いて「第1話」段階で作品の善し悪しを判断する意義を言えば、
それは、自身の予想が作品に「裏切られる感動」にあるように思う。
つまり、作品の消費を通じて自身の知的データベースが変更される感動。
あるいは、「1話での予想」と「実際の作品」の差異を発見する喜びと言い換えても良い。
そのため、私が「1話での予想」と「実際の作品」が一致することに特別な意味を見出すことはあまり無い。
 
いずれにしろ私は、
「1話での自身の予想(=自身の知的データベース)」と「実際の作品」が “一致しないこと”、
あるいは「予想」と「実際の作品」を “一致させないこと” をこそ願って、
作品に対して「考察」を加えている次第である。
 
そのため、ここにおける「考察」とは、「作品」の吟味を通じて、
「自身の予想(=自らの矮小なデータベース)」にある種の「空間 / 余白」を与える行為である。
 
その逆ではない。
その逆――「作品」に空白を創る行為――は、俗流的な設定考察である。
あくまでも「空間 / 余白」が発生する場所は、私たちの「データベース」であり、
この「空間 / 余白」が私たちの「データベース」に変更の可能性を与えるのだ。
  
よって、ここで言う「考察」とは、「自身のデータベース」をもとに作品を論じることで、
翻って「自身のデータベース」に「変更可能性」を付与する運動を指す。
そして、それが「考察の運動」だと私は考えている。
  
繰り返しになるが、その逆ではない。
 
 
 
敢えて言えば、こうした運動を、私はエクリチュールの効用として以前から記していた次第。
より分かりやすく言うと、「書くこと」とは、自身の思考や体験を強化しているようで、
実際には、反対に自身の思考や体験を多層化してしまう行為でもあるということだ。
 
以前の比喩をそのまま使い回すと、
例えば、壮観な風景を見た時などに、大きな感動を覚えることが私たちにはあると思う。
そして、思わずその感動を言葉にしたいと願うこともあるだろう。にもかかわらず、
その感動を言葉にした途端、何故か感動が崩れてしまったという体験も同様に多いはずだ。
このように、「純粋な身体感覚」をかえって疎外してしまう効果を、本来「言葉」は有している。
 
一方で、この「言葉」による疎外は悲劇的な現象だが、
他方で、「書くこと」や「考察」の本質的な魅力とはここにこそある。
つまり、「書くこと」や「考察」の効果とは、自身のデータベースの「単純な強化」ではなく、
「表層的な強化」のなかに隠れた、潜在的で偶発的な「意図せぬ変化」にある、と私は考えている。
 
そして、この偶発的な変化の実現こそ、「書き手の欲望(=データベースの単純な強化)」とは異なる、
「エクリチュールの欲望」――書いたものの手から離れた「書かれたモノの欲望」に他ならない。
それは、「書き手の欲望」に寄生しながら、それを内破する存在である。
 
 
 
 
 
 
◯ 実際に。
 
そういうわけで、今期あった変化を一言ずつ。
 
 
・『このすば』:好転
 
かつて私が書いた「1期」の感想を改めて読み返してみると、
相対的に言って「2期」に対する私の評価の高さが良く分かる。
 
とは言え、この好評価は「作品それ自体」の質が向上したことに由来するのではなく、
作品に対する私の関心の高まりとともに、私が『このすば』の環境により深くコミットしたことに由来するのだと思う。
 
その意味で言うと、本作のエンドロール「Thanks for your playing」という言葉は実に示唆深い。
すなわち、本作は消費者が如何に「play」したかによって、評価が分かれる作品なのだろうし、
実際に本作は、そうした「play 可能性」が多分に確保された作品だったように思う。
 
 
 
・『小林さんちのメイドラゴン』:二転三転
 
変化という意味で言えば、二転三転が最も面白い。
まさに「リアルタイム」で作品を視聴しているという感覚だ。
考察を行うたびに、評価のほどと作品の可能性が拡大していく楽しみがある。
 
 
 
・『クズの本懐』:?
 
微妙なところ。
そもそも私には、批判的であるならばこそ、価値転倒を企てたいという想いが根底にある。
よって、当初の批判的な印象に比べれば、考察(=価値転倒)の過程で、その評価は好転しつつある。
 
 
 
・『幼女戦記』:二転三転
 
「1話」が余りにも悲惨であったため、一度は好転したと言えるものの、現時点では否定的。
が、繰り返しになるが、そうであるからこそ、価値転倒を企てたいとも考えている次第だ。
 
なお、ここで言う「価値転倒」の対象とは、別に「世間」や「社会」のような大それたものではなく、
あくまでも消費者である「私の知的データベース」を指す。もっとも、こうした私的な価値転倒は、
間接的に――例えば、ウィトゲンシュタインの語る私的言語の不可能性によって、
社会的な価値転倒に接続されていくことも、私は仄かに期待している。
 
 
 
・『ガウリールドロップアウト』:途中参加
 
このサイトでの感想を参考に、5話前後に途中参加した作品。
7話ほどになってから1話をみた記憶がある。
 
 
 
・『ACCA 13区監察課』:途中参加
 
こちらは英米圏の評価を受けて、途中参加した作品。
 
 
 
・『うらら迷路帖』:ボンヤリ
 
1話からボンヤリみています。
 
 
 
・『リトルウィッチアカデミア』:好転
 
劇場作品の評価が高かったため、
これ程までに良い作品になるとは想像していなかった。より正確に言うと、
現在の消費環境でなお、かつてあの劇場作品が有していた雰囲気を維持してくれるとは予想していなかった。
 
 
 
・『昭和元禄落語心中』:途中参加
 
「せっかくの作品なのだから」という周囲の勧めに従い、途中参加。
が、現状、価値転倒を行うことは極めて困難だという印象だ。
 
 
 
・『鉄血のオルフェンズ』:好転
 
最序盤は極めて批判的であったが、
岡田節や諸ガンダム作品との関連性を理解して以降は全体的に好印象へ。
 
 
 
 
 
ちなみに、現時点で見ていない作品(切った作品も含めて)について言及するつもりは全くない。
この点に関しては、「書くこと」の意味をめぐる価値観の違いなのだと思う。
 
そして言うまでもなく、振る舞いの善悪についてここで論じるつもりも毛頭ない。
 
 
 
ただ、補足的に述べておくと、『けものフレンズ』については、
作品の方針は理解できたものの、そうであるからこそ、
恐らく私が書くべき作品ではないとも思った次第。
 
 
 

もう一点補足しておくと、
前期にて推した『ユーリ!!! on ICE』も、3,4話辺りで途中参加した作品。
今期の途中参加作品はあまり熱心に語っていないが、基本的には偶然的なものだと思う。
 
ちなみに『ビビスト』も1話から昇順では見ていない記憶がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
以下、雑記。
 
 
 
◯ 正しさ。
 
「ルールを守ること」それ自体は、決して「共通善」ではない。
「ルール」とは、「共通善」を実現するための一手段として存在しているにすぎず、
「ルールを守る」という原因を受けた結果、必ず「共通善」が訪れるというわけでは断じてない。
 
一般的に言って、私たちはこうした因果関係に関する誤認には細心の注意を払う必要がある。
 
 
その意味で言うと、「動員」や「空気」で以って「正しさ」を振りかざす態度は、
必ずしも「共通善」に適うものではない、と個人的には思う。
 
もちろん、それはルールを蔑ろにすることを推奨するものではないが、
「動員」や「空気」で以って「共通善」の実現を目指す行為もまた、避けられるべきではないだろうか。
その手の振る舞いは、余りにもワイドショーに毒された「正しさ」であるように思われてならない。
 
 
あるいは、「空気」を利用する人々は、それを認めないかもしれない。
あくまでも「論理的な正しさ」をベースに議論しているのだ、と主張する姿は容易に想像ができる。
だが、「論理的な正しさ」を棍棒のように振り回す行為は、どう考えても「論理的に正しくない」ため、
恐らくそれは論理的に言って「正しくない」振る舞いだろう。
 
したがって、より上位に存在する「正しさ」のために、
下位に存在する「論理的な正しさ」を留保しなければならない時もまた、
私たちの社会には存在しているのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
◯ エクリチュールの欲望+。
 
エクリチュールに関して、少々の補遺を。
 
まず、「書くこと」とは、根本的に言って、
書き手に対して「変更」や「変化」を潜在的に強要する行為である。
これは前述した第一項にて示した通りだ。
 
第一項にて示した作用の他にも、例えば「書くこと」は、
「書くこと」によって生じる「誤解(=想定外の解釈をされること)」や、
「誤配(=想定外の人々に読まれてしまうこと)」によっても、
「書き手」に対して「変更」や「変化」を強要する。
 
そのため、私たちは一般的に言って「書くこと」を躊躇うはずである。
もちろん、それが「書くこと」ではなく、相互愛撫的な「毛づくろい的コミュニケーション」なのであれば、
私たちは一切躊躇わないだろう。だがしかし、それが「書くこと」なのであれば、私たちは、
本来的に言って、「書くこと」を躊躇うべきなのであり、また恐れるべきなのだ。
 
逆説的に言えば、私たちは自らの発言に対して「躊躇い」や「恐れ」があるのか、
それを省察することによって、自らの行為が「書くこと」に相当しているのか、
それとも「毛づくろい」にすぎないのか、それを判断することが可能になる。
 
 
私は「毛づくろい」を批判するつもりは全くない。
が、しかし、「批評」という行為が、決して「毛づくろい」でないことは、
恐らく疑いようのない事実であるように思われる。
 
 
 
 

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4.
2017/03/11 2017年アニメ > 2017年 冬アニメ 感想 7 。」
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冬アニメ感想7。
 
 
 
 
 
◯ 小林さんちのメイドラゴン
 
特に議論が起こっていないため、
ひとりで提起と反駁を繰り返そうと思う。
 
 
まず、本作『小林さんちのメイドラゴン』は、
単身者が家庭を持った結果、肯定的に変化していく様を描いた作品だと評することが可能だ。
しかも、そこで単身者に温かさを与える「家庭像」とは、コンサバティヴな「家庭像」ではなく、
「メイド(≠Maid)」や「同性(+ドラゴン)」と言った表象によって「アニメ化」された「家庭像」である。
そうした「アニメ的な家庭」が、単身者のライフスタイルに変化をもたらす過程を描いた作品、
例えば、本作『小林さんちのメイドラゴン』は、そう評することが可能な作品である。
 
 
が、しかし、ここで敢えて俗流的なフェミニズムに立場を寄せると、
そこで描かれる変化は、やはりコンサバティヴな変化にすぎないと言える。
なぜならば、現実的に私たちが子どもを持つ際に変更を迫られるライフスタイルの変化とは、
「運動会の参加」と言った問題に回収することなど不可能な変化だからだ。
 
例えば、出産は象徴的な問題である。
あるいは、産休や育休と言い換えても良い。
私たちはカンナの運動会に参加する以前に、カンナの出産と育児に向けて、
ライフスタイルを大きく変更しなければならないのである。特に女性はそうだ。
そして、残念ながら『小林さんちのメイドラゴン』は、そうした最もクリティカルで、
最もポリティカルな変化の過程を、悉くオミットした作品だと言わざるを得ない。
本作が「運動会への参加」を通じてコミカルに描くのとは異なり、
実際に家庭を持つことがもたらすライフスタイルへの影響とは、
よりクリティカルかつポリティカルな問題なのであり、
性によっても不平等な問題なのである。
 
したがって、こうした性に基づく不平等を無視した「アニメ的な家庭像」を用いて、
単身者が「家族化」することのメリットを説くことは、保守的な「家庭像」の再生産に加担しているも同然だ。
 
などと言った批判を展開することは可能である。
 
 
が、しかし、冒頭にて前置いた通り、
これは俗流的なフェミニズムあるいは表象論にすぎない。より分かりやすく言うと、
この手の批判は、二次元と三次元の区別が付いていない人が為す批判だ。
率直に言って、相手にする意味はない。
 
もちろん、現実にある性をめぐる不平等は解消するべきである。
また、『小林さんちのメイドラゴン』が、敢えて出産と言ったセックスに基づく問題をオミットしていることも事実である。
だがしかし、こんなことは言うまでもないが、こうしたポリティカルな問題系は、敢えて本作からオミットされているのだ。
あるいは、そうしたポリティカルな問題系を敢えてオミットするための装置として、
本作は「メイド」や「ドラゴン」と言った日本アニメのデータベースを参照している。
 
したがって、例えば私たちが表象論の形態で以って議論すべき問題とは、
俗流的な人々が傾倒するような「オミットそれ自体の是非」等のベタな問題系ではなく、
そうしたオミットを可能にしているこの国の風土の可能性や限界点など、
より高位のレベル(=メタレベル)に存在する問題系に他ならない。
 
特に、その可能性だ。
限界点を論じることは余りにも容易であり、それはもはや論ずるに値しない。
そうではなく、私たちが論じるべき問題とは、限界点とその先に在り得る可能性であり、
この限界点を超えていく運動において、私たちの批評的な主体性は、はじめて発揮されるのである。
 
 
 
と言った批評的な感性が失われつつあることは素朴に残念だ。
 
もちろん、ここにはある種の否定神学的な危険性が存在していることも確かだ。
しかし、ゼロ年代には、そうした否定神学的な危険性へのアンチテーゼが云々――
と言った領域から、私たちは随分と後退した地点にいると感じる。
 
 
 
なお、物語内容についても申し訳程度に感想を書くと、
今回は素朴に面白かったと思う。才川さんのEcstasyは、あまり好みではないのだけれども、
物語内容自体は文化的なコンフリクトを良く扱っており、個人的には好評価な回だった。
 
あと、エルマさんがサラリとコンビネーションの計算を行った場面が一番のツボ。
 
 
 
 
 
 
◯ このすば。
 
確かに『このすば』は1クール分を一気に見て楽しめるような作品ではないと思う。
 
『このすば』は明らかに環境的な作品であって、
作品それ自体が格別に優れているわけでは決してない。
だが、それは必ず否定されなければならないことなのだろうか。
むしろ、限界点にこそ、何らかの可能性が潜在しているのではないか。
 
私たちがそうした価値転倒の思考を取り戻すことを切に願う。
もちろん、破滅主義やメシアニズムとは異なる形で――。
 
 
 
 
 
 
◯ クズの本懐
 
彼女(彼ら)たちの性行為は、どこか自傷行為と似ている。
つまり、それは快楽に属する問題ではなく享楽(jouissance または Le Réel)に属する問題なのだ。
 
もしも、彼女たちの享楽に全く共感できないというのであれば、それは幸せなことだと思う。
しかし、彼女たちの享楽を否定しかできないというのであれば、それは大変に不幸なことだと思う。
 
 
享楽(jouissance / Le Réel)をめぐる問題は、
いま私たちが直面している問題のなかでも、最もシビアな問題のひとつだ。
 
 
 
 
 
 
◯ 幼女戦記
 
既に各所で指摘されているとおり、
脇の甘さが徐々に露わになりつつあるという印象だ。
 
言うまでもなく、異世界転生というガジェットのルールについては了解しなければならない。
しかし、一端のサラリーマンが、第一次大戦や第二次大戦にて登場する諸々の出来事や兵器の名称を全く知らないとあっては、
さすがに主人公の無知さに呆れ返ってしまい、設定上の有能さと認知的な不協和を起こしてしまう。
 
いや、下手な先入観はかえって有害となる可能性のほうが高いが、
それでも、もう少しどうにかならなかったのか・・・。
現状の主人公はただの凡夫にすぎない。
 
 
そうした諸々が相まって、
もはや元男性労働者という設定の面白さは霧散しているように見受けられる。
もう少し言い方を変えると、ターニャが抱く「存在X」に対する感情が、
一般的な男性労働者が抱くであろう感情から余りにもかけ離れており、
作品としては、ただの『「幼女」戦記』に成り下がったという印象だ。
主人公が男性労働者の転生体である必要性は微塵もない。
 
よって、男性労働者が幼女に転生し魔法を操るという設定が、
潜在的に有していた価値転倒の可能性は、既に失われたと言うべきだろう。
 
 
しかし、こうした問題点の多くは、
アニメにではなく原作に由来する問題点にすぎないのかもしれない。
だが、アニメの問題点を指摘する原作読者の声も聞くため、
あるいは、アニメ側が原作の構造的問題を拡大させてしまっている可能性も否めない。
 
もっとも、私には原作を読もうと思うほどの関心はないため、その真偽のほどは分からないのだが。
 
 
 
 
 
 
◯ ACCA 13区観察課
 
誰も触れないので軽く。
 
翻って、素朴な「正しさ」を溺愛するのであれば、
例えば『ACCA』などを語るのが良いのではないだろうか。
どう語るのが良いかは分からないが、比較的「正しく」語り易そうな作品だとは思う。
 
 
反対に言うと、私にとってはあまり魅力的な作品でない。
 
例えば、『フリップフラッパーズ』をみて「はいはい、ウィトゲンシュタインね」と即座に了解したり、
『ガンダムUC』をみて「クリプキ、ニーチェ、デリダね」と即座に了解するようなオタクがまだ大勢いるのであれば、
本作のような作品を「正しく」語ることに価値はあるのだと思う。
 
が、現実はそうではない。
実際には、その手のクラスタは殆ど死に絶え、またその絶滅も歓迎されている。
そして、「正しく語る行為」こそが、この「現在」を作り出したのだから、
恐らくその結果だけを鑑みても、「正しく語る行為」は「正しくない」。
 
 
私が近年『SEED DESTINY』に対して両義的である理由も、ただこの一点に尽きる。
「現在」という時間は、ゼロ年代の「あと」にあるのだ。したがって、「現在」に対して批判的であるならば、
当然のことながら、「過去」に対してもまた批判的であるべきだろう。
如何にその「過去」が美しいものであろうとも。
 
その意味において、私は懐古的な嗜好――
それも「現在」を批判する懐古主義に対しては、極めて批判的な態度を取っている。
 
ただし、「現在」にも「過去」にも批判的な意見を持ちながらも、
敢えて忘却されつつある「過去」に対て価値転倒を加えんとする態度――
すなわち、アナクロニズムについては、懐古主義との峻別を前提に、むしろ強く肯定している次第である。
 
 
 
 
 
 
◯ ガウリールドロップアウト
 
好きです。
 
が、特別に語るような点がある作品でもないかと。
強いて言えば、恐らく原作よりもアニメのほうが楽しめる作品に仕上がっているとは思う。
 
 
 
 
 
 
◯ 鉄血のオルフェンズ
 
加筆、または別途掲載予定。
 
 
 
 
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=>古記事5. 2017/03/06 2017年 冬アニメ 感想 6 。
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