フェティアの日記/書き物

総閲覧回数:331,260回 / 推薦評価:52個(内 論客31人) / ブログ拍手:666
 18日17日16日15日14日13日12日11日
閲覧87 (-35)122 (-108)230 (+173)57 (-15)72 (+1)71 (+8)63 (+13)50

アクセス記録[推移 / PV内訳(過去1日 / 過去1週間) / 外部アクセス元 (昨日 / 過去1週間) / ログイン論客足跡]
プロフィール私書(メール)
   /   /送済
評価(一覧   /)
投票   /共:   /
他己紹介
17/02/25
ブログ
[書く]
リンク集(無)
RSS購読
RSS
表示開始年月
分類
 作成日時分類記事タイトル
12019/04/162019年アニメ..『ブギーポップは笑わない』感想+考察 ーー なぜブギ..
22019/03/292019年アニメ..『ケムリクサ』1~12話:感想+考察 ーー 伊藤計劃..
32018/12/292018年アニメ..2018年 アニメ 感想+考察まとめ ーー 宇宙より..
42018/03/232018年アニメ..宇宙よりも遠い場所(『よりもい』) 12話までの雑記..
=>前の記事 2018年 冬アニメ 感想 3.5。
 反応日時来客名来客者の最近のメッセージ
12019/04/16rie-ruコメントでははじめましてです。私には難しいなあと思いながらも..
22018/12/30アンレーご無沙汰しています。興味深く拝見させて頂きました。このブログ..
32018/03/25 非論客コメント
42017/07/05春の夜月お久しぶりです。エロマンガ先生についての海外反応の部分興味が..
52017/01/11bit僕もそこまで考えてなかった!というか考えているワケがないとい..
その他最近のコメント
1.
2019/04/16 2019年アニメ > 『ブギーポップは笑わない』感想+考察 ーー なぜブギーポップは宮下藤花に宿ったのか。」
[この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:2個

『ブギーポップは笑わない』をめぐって。
とは言え『ケムリクサ』ほどハードに展開し始めると大変なので雑に。
 
 
 
 
 
さて、本作『ブギーポップは笑わない』をめぐって重要な問いとは何だろうか。
恐らくそれは「なぜブギーポップは宮下藤花に宿ったのか」という問題に他ならない。
換言するとそれは、宮下藤花はキャラクターとして存在する意味はあったのか、という問いでもある。
現に、本作『ブギーポップは笑わない』において、宮下藤花はブギーポップの依代として、
常に作品の背後へと退隠することを強制されていた。
 
果たして宮下藤花は登場する意味があったのだろうか。
あるいは、宮下藤花とは何者なのか
 
 
 
簡潔にとは言ったものの、少し遠回りをしながら議論を展開しようと思う。
アニメ版『ブギーポップは笑わない』という作品は、端的に言ってしまえば、
ある意味で「意識高い系」の作品とでも言うことができるだろう。
 
すなわち『ブギーポップ』のなかで発生する<世界の危機>とは、
あくまでも概念的な意味で用いられている「セカイの危機」なのであって、
例えば世界情勢という意味で用いられる具体的かつ社会的な意味での「世界の危機」とは一線を画している。
つまり、早乙女正美らは別に国際社会の緊張レベルを高めるわけでもなければ、国民を内戦に導こうともしない。
彼らの存在は、ただ唐突に、脈絡なく、抽象的かつ判然としないまま<世界の危機>として描かれているにすぎないのだ。
ちょうどそれは、思春期を迎えてもなお立ち消えない、幼少期に見た「ブギーマン」の幻想として現れているようだ。
それほどに、『ブギーポップ』が描く<世界の危機>は、良くも悪くも個人的な体験である。
 
そして言い換えれば、
それは「ボクの実存的な不安が、セカイの危機に直結する」という構造を成しているのであり、逆説的に言えば、
その構造は<世界の危機>が解消されたとき、ボクも実存的不安から救済されるという願望を倒錯的に内含している。
具体化は必要だろうか。例えば飛鳥井仁の欲望は顕著にそうであった。
 
いずれにしろ、このように、
ボクの実存の解決が、世界――それは概念的な「セカイ」と、実際的な「世界」の混合体――の救済に接続される点において、
『ブギーポップ』の構造は、いわゆる「意識高い系」と呼ばれる人々の欲望と、非常に高い親和性を持っていると考えられる。
つまり、「今日の俺のこの成長が、必ず社会を良くしていくって確信しています」的な何か。
残念ながら私は意識高い系の言説を正確には再現できないが…。
 
あるいは、それはかつて世紀末の社会を覆ったある種の新興宗教が持つ救済の構造と近いとも言えるし、
したがって、その変奏曲として現代社会を覆うある種の自己啓発が謳う救済の構造に近いとも言えるだろう。
その意味で今回の『ブギーポップ』は、かつて登場した『ブギーポップ』の空気感をよく引き継いでいたのかもしれない。
 
 
 
他方で、こうした「ボクの実存的な不安」と「セカイの危機」を短絡接続する作風が、
現代を生きる高校生たちの実態を、どの程度正確に捉えているかは甚だ疑問が残る。
 
すなわち、『ブギーポップ』の舞台が未だに高等学校である必要はなかったように見える。
恐らく今の高校生たちが日々感じている不安や危機は、絢爛なバブル期たる80年代を思春期として生き、
平成という失われた時代を生産年齢人口として過ごしてしまった世代のそれとは異なるものだろう。
 
あるいは、幾らかの人々にとって、あくまでも『ブギーポップ』の舞台は高等学校でなければならなかったのかもしれない。
つまり、幾らかの人々はあたかも一人の飛鳥井仁かのように、「ボクは一体何者なのか」という実存的不安に苛まれながら、
大学生という終わらない、もしくは終わらせることのできないプロ就職期間に留まり、
来るべき世界を待望し続けなければならなかったのかもしれない。
 
その意味において、個人的な感想を言えば、
『ブギーポップ』をめぐっては、ある種の哀愁を感じざるを得なかったし、
そうした世代の悲劇を如何にして慰霊するかは、令和の時代のひとつの課題になるだろう思う。
 
 
 
 
 
さて、話を戻そうと思う。
これまで本稿では『ブギーポップは笑わない』を、
「ボクの実存的な不安」と「セカイの危機」が直結する作品として論じた。
言うまでもなく、この議論はいわゆる「セカイ系」と呼ばれる作品の構造を念頭に置きながら展開されている。
セカイ系とは、一般に「キミとボクの関係」が中間項を排しながら「セカイの危機」に直結する作品群をいう。
 
では、『ブギーポップは笑わない』はセカイ系作品なのだろうか。
確かに半径5mの問題が、中間項を排しながらセカイの危機に直結する点において、
『ブギーポップ』はセカイ系作品だと言うことが可能であるように見受けられる。
 
しかしながら、セカイ系作品における半径5mが「キミとボクの関係」であるのに対し、
『ブギーポップ』のそれは「ボクの実存的不安」に留まる点において、これらには明らかな差が存在している。
すなわち、『ブギーポップは笑わない』からは「キミ」が排除されてしまっているのだ。
ここには一つの退行がある。
 
如何なる退行があるのか。
前述したように、セカイ系とは「キミとボクの関係」が「セカイの危機」に直結する作品群をいうが、
より正確に言うと、セカイ系とは「キミとボクの関係」と「セカイとボクの関係」が対立する作品群だと言える。
すなわち、セカイ系作品とは「ボク」をめぐる2つの関係性(≒正義)の対立を基本的な構造としているのであり、
この点において、問題が「セカイとボクの関係」に限定されている『ブギーポップ』をカテゴライズするのは、
本来的な意味では間違いだと言える。
 
 
 
が、しかし、本当に『ブギーポップは笑わない』は「キミ」を排除しているのだろうか。
 
確かに『ブギーポップ』をロスジェネの物語として読めば、
あるいは飛鳥井仁の物語として読めば、作品からは「キミ」が排除されていると言うより他ないだろう。
だが実際には、『ブギーポップ』にも確かに一人の「キミ」が存在していたはずだ。
それが「宮下藤花」である。
 
他の登場人物たちが漏れなく実存的な問題に苛まれているなかで、
唯一宮下藤花だけが、素朴な女の子であり続けている。
唯一宮下藤花だけが、ただ素朴に竹田先輩を ”好き” であり続けているのである。
あたかもひとつの自動的な存在として、主体的に――。
 
一方で、宮下の発する ”好き” は、ひとつの主体的で自動的な感情として、
「セカイの危機」とブギーポップによって作品から隠退させられ続けている。
言うなれば、そこには隠喩の構造が発生しており、<性質としてのブギーポップ>が、
文字通り不気味な泡として、不在の虚空となった宮下の場を滞留し続けているのである。
 
だが他方で、私たちが換喩的な欲望に抗う限りにおいて、
すなわち、私たちが「ブギーポップの正体」や「セカイの謎」と言った横滑りに囚われ続けない限り、
この退隠によってこそ、宮下の ”好き” は私たちにとって主体的で自動的なものとして、直覚することが可能になる。
そして、この意味において、宮下藤花は紛れもなくブギーポップ(=自動的な存在)なのである。
 
 
 
宮下藤花の ”好き” は、あくまでも自動的だ。
つまり、他の登場人物たちと異なり、宮下の行動原理は正義や道徳と言った特定の意志に依らない。
当然だろう。理性と意志に基づく厳格な指令によって他人を好きになるというのでは頭がどうかしている。
宮下藤花が自動的だと言い得るのは、彼女が観念論的な理性や意志とは全く異なるものによって突き動かされているからだ。
良くも悪くも宮下藤花に崇高なる意志はない。
 
だが、それでいて、宮下藤花の感情には明らかな主体性が宿っている。
すなわち、宮下は他者からの強制を受ける他律的存在ではなく自律的な存在だ。
実際に宮下の感情は、例えばスプーキーEによって洗脳された衣川や安能のそれとは異なっているはずだ。
 
このようにして、宮下藤花は、主体的で、自動的な存在として物語に滞留していたのである。
あたかもひとりのブギーポップであるかのように
 
 
 
だが、逆説的に言えば、
ブギーポップはあたかもひとりの宮下藤花のようだとも言い換えることができる。
 
現に、ブギーポップはあたかもひとりの宮下藤花のようであった。
例えば、ブギーポップに崇高なる意志といったものは存在しない。
彼女は不気味に微笑みながら(しかし微笑みながら)、脱力した態度で世界の敵を倒すだけである。
それは実に気の抜けた適当な振る舞いで、そこには飛鳥井仁や歪曲王のような生真面目さは存在しない。
ブギーポップは、あたかもセカイの危機に泣く子をあやすかのように、アイロニカルにそれを無力化していく。
あたかも元来セカイの危機など存在しなかったかのように。
あるいは、あたかもひとりの宮下藤花のように。
 
 
 
この意味において、ブギーポップは正しく宮下藤花に宿るべきだったのである。
だが、本作の主役は、宮下藤花/ブギーポップではなく、あくまでもブギーポップ/宮下藤花として、
すなわち、宮下藤花(キミ)が下部構造として抑圧された形で定義づけられなければならなかった。
 
何故なのか。
敢えて言えば、それほどに飛鳥井仁の悲しみは深いのだろう。
 
もはや彼らにとって、主体的で自動的な存在である宮下藤花と直接的に対面することは叶わない。
言うなれば、彼らにとって、宮下藤花は眩しすぎるのだ。彼らには、ブギーポップに対面することが限界なのであり、
言い換えれば、つまり彼らにはあの外套が必要なのである。
 
 
 
ブギーポップは宮下藤花のためにあの外套を着るのではない。
ブギーポップは飛鳥井仁のために、あの外套を纏うのである。
あるいは終われぬ青年たちのために、自身が宮下藤花であることを隠さんと、
ブギーポップはあの外套を纏わなければならないのである。
 
そして飛鳥井仁たちは、影に隠れた宮下藤花を通して初めて、
自らが抱え苛まれるセカイの危機を否定されることが可能となるのだ。
 
 
 
 
 
 
令和の時代に際し、
私たちはこうした飛鳥井仁の悲しみに向き合わなければならないではないか。
そう思われてならなかった。
 
敢えて言えば、宮下藤花を愛するひとりの人間として、
私はあの外套に悲哀を感じざるを得なかった。



.

コメントする2個


rie-ru さんのコメント (2019/04/16) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
コメントでははじめましてです。
私には難しいなあと思いながらも惹かれて、頑張ってフェティアさんの文章を読んでみています。

>言うなれば、彼らにとって、宮下藤花は眩しすぎるのだ。

私は今どきの高校生でもないし、かといって本作の世代と言うには下過ぎる中途半端な歳ですが…
この眩しいという感覚、そうだなあと感じました。
言い換えれば、「人並みに自動的に生きていられる彼女はわたしと関わりがない」という、見る側の無意識の自意識過剰というか…

本作は、世界の危機を救うのではなく否定するお話なように思えます(おっしゃられてますが)。
危機を救うのはブギーポップであってわたしたちではない。
わたしたちがわたしたちを救うことは、世界との対立では成し得ない。

飛鳥井先生の結末は、辛くて、現実的。
ブギーポップという「キミ」は、彼を救わず、楽にもせず、間違いを指摘することしかできない。
…いわばこの作品は、挫折の物語なのかなとも感じます。

知識が無く頭もよわい人間ですので、妙なコメントになってしまったかもです。
お許しくださいませ。

2.
2019/03/29 (2019/03/30更新) 2019年アニメ > 『ケムリクサ』1~12話:感想+考察 ーー 伊藤計劃以後の世界について、あるいは換喩をめぐって。」
[この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:1個

1. < はじめに >
2. < 設定考察 と 考察 >
3. < 換喩 >
4. < 隠喩 >
5. < デッドコピーの死 >
6. < 貧者の生存戦略 >
7. < 人類以後の人類 >
8. < 伊藤計劃以後 >
9. < 終わりに >

 
 
新元号の発表が間近となり、平成ももう終わりますね。
そんな平成の終わりに際し、何か『ケムリクサ』について書こうと思い立ってしまったため、
長い長い議論を以下展開していきます。
 
  
 
 
1. < はじめに >

 
まずは簡単な感想を述べるところから始めようと思う。
とは言っても、素朴な感想として述べるのであれば、本作『ケムリクサ』は、
仮にどれだけ贔屓目に見ても、良作止まりの作品だと言わざるを得ないように思う。
 
例えば、作画については言うまでもないだろう。
あるいは演出についても、従来のアメニティズムとは良くも悪くも一線を画する出来栄えであった。
 
また脚本・物語やその情報コントロールに関しては、
『君の名は。』のそれに良く倣っていたというべきではないか。
この二作品の類似点について、一方で形式的な点から言うと、二作品はともに、
中程度の情報量を快な範囲で小出しにすることで、視聴者を少しだけ置き去りにし、
それによって物語への欲望を惹起させるという手法を採用している。
 
他方で内容的な点から言えば、
『君の名は。』も『ケムリクサ』も、ともに「性関係が成就するループもの」だと言えるだろう。
もっとも、この二作品には構造的に大きな差があるのだが、それについては後述することとしようと思う。
 
いずれにしろ、こうした脚本と物語をどのように評価するかは判断が分かれるはずである。
ゆえに、ここでは敢えて良作という評価に留めたい。
 
 
 
他方で、消費環境についても僅かに触れると、
本作についてはインターネット上での設定考察も盛んに行われた。
実のところ本稿は、この消費環境についてこそ主に考察の対象としている。
 
が、それに先立って敢えてそうしたメディア環境に対する私の立場を述べると、
これは以前『ハッカドール』をめぐっても書いたことだが、私はこの種の消費環境に必ずしも肯定的でない。
 
少しだけ内容を繰り返し書くと、
ある種の集合知をめぐって重要なこととは、その集合知の構成員たちが自らの不能を愛撫するために、
集合知を再帰的な自己承認の媒介とすることではなく、その集合知にノイズが紛れ込ませること、
あるいはその集合知自体をノイズとして利用することに他ならない。すなわち、作品や考察が成すべきこととは、
既存の集合知の橋桁を外すことなのであって、集合知の完全性を無批判に肯定することではない。
なぜならば、この程度の集合知とは、民主主義を支える一般意志とは全く異なるものであるのに留まらず、
2015年を境に、特殊なメディア環境に際しては、一般意志もまた間違え得るということが示されてしまったからである。
 
一般意志は間違え得る。
当然だろう。近代民主主義や一般意志というものが構想された時代には、
インターネットなどという享楽のメディアの登場は想定されていなかったのだから…。
況や集合知をや――。
 
 
 
という問題系を頭の片隅に置きながら、
本作『ケムリクサ』の物語内容とその消費環境について考察を展開しようと思う。
簡潔に外観を述べると、それは換喩と隠喩をめぐる考察となる。
 
 
 
 
 
2. < 設定考察 と 考察 >

 
さて、具体的な考察に入っていこうと思う。
 
が、しかし、ところで私は先程から、
一方では「考察」という言葉を使いつつ、他方では「設定考察」という言葉も使って議論を進めてきた。
特に、前項では盛んに「"設定考察" が行われた消費環境について "考察" する」とも書いた。
当然のことながら、私はこの「設定考察」と「考察」という言葉を、確かな峻別のもと意図的に使い分けていた。
すなわち私は、一方で『ケムリクサ』をめぐって行われている多くの考察を「設定考察」と呼ぶとともに、
他方で、これから私が展開しようとしている議論の形式を「考察」と呼んでいるのである。
そして敢えて言えば、この「設定考察」と「考察」の違いこそが本稿の核心なのだ。
 
では、「設定考察」と「考察」の違いとは何なのだろうか。
それが「換喩」と「隠喩」の違いである。
 
 
 
ではでは、「換喩」と「隠喩」の違いとは何なのか。
いや、あるいは「換喩」と「隠喩」とは何であるのか。
以下、これについて見ていこうと思う。
 
だが、敢えて結論だけを先に述べておくと、
その違いとは、それが新しい意味作用を生みだすか否かという点にある。
すなわち、「換喩」が新たな意味作用を生じさせないのに対して、
「隠喩」とは対し新たな意味作用を生み出す技法なのだ。
そして、『ケムリクサ』とは、その物語内容も消費環境も含めて、
この「換喩」を徹底した作品だと言い得るのではないか、というのが本稿の主旨である。
 
では、この命題に向かって詳細を見るとともに、
少々遠回りをしながら『ケムリクサ』を最後には肯定的に論じてみせようと思う。
 
 
 
 
 
3. < 換喩 >

 
まず、換喩とは何であろうか。
面倒なのでWikipediaから引こうと思う。
Wikiによれば、換喩とは、概念の隣接性あるいは近接性に基づいて、語句の意味を拡張して用いる比喩の一種であるとされる。
 
具体的にはどういうことか。
換喩の例を1つあげると、それは「一隻の船」を「一枚の帆」と言い替える操作があるだろう。
この例では、表現は同語反復的に置き換えられただけで、表現の対象には何ら変化はない。
すなわち、一隻の船が太平洋を横断することと、一枚の帆が太江費用を横断することは全く同義であり、
何ら新しい意味作用が生じていないことがわかる。言うなれば、換喩とは、言葉が水平方向に移動することを指すのであり、
ネガティブな表現をすれば、換喩とは言葉の横滑りを意味しているのだ。
 
そして、後にこの価値を転倒することを前提に敢えて言えば、
『ケムリクサ』をめぐる多くの設定考察とは、こうした換喩的な言葉の横滑り作業だと言える。
例えば6話にて、わかばがアオを使う際に生じたシールドの形状が、フェナントレンの構造式を模していることは、
端的に言って知る意味がない。より正確に言えば、この表象の置換は、物語に対し何ら新たな意味を生み出すものではない。
あるいは、3Dプリント説や白衣の伏線に関してもそれと同様のことが言える。この種の叙述トリック(伏線回収)は、
結局のところ、準備されていた意味作用が対応するトリガーによって機能しはじめただけで、
新たな意味作用が生み出されたとはやはり言い難いのだ。
 
つまり叙述トリックとは、「一枚の帆」についての文章だと思って読んでいたら、
実はそれは「一隻の船」について書いた文章であったことが後から分かったことと同義である。
よって、かの種の伏線回収とは、意味作用の創造を足がかりに成立しているのではなく、
むしろ意味作用の横滑り(=換喩)によってこそ、その本質を支えられていると言える。
 
そして、繰り返し注釈として述べるが、後にこの価値を転倒することを前提に敢えて言えば、
『ケムリクサ』をめぐって成された多くの "考察(=設定考察)" と呼ばれた作業とは、
このような言葉の横滑り作業(=換喩)が、その殆どだったのではないだろうか。
ゆえに、かの"考察"――すなわち設定考察は、作品に対し何ら新しい意味作用を与えなかったように見受けられる。
残念ながら――。
 
 
 
 
 
4. < 隠喩 >

 
では、この換喩に対置される「隠喩」とは一体どのような技法なのだろうか。
すなわち「考察」とはどのような作業なのだろうか。
隠喩について日本のラカニアンから引こうと思う。
 
例えば、ユゴーの詩「眠るボアズ」の一節には次のような表現がある。
「彼〔ボアズ〕の麦束はケチでも恨みがましくもなかった」
この一節は、ボアズが後に彼の妻となり子どもを生むことになるルツの傍らで居眠りをしている場面の描写であるが、
さすがにどの部分が隠喩と呼ばれる技法なのかを説明する必要はないだろう。個人的にはそうと信じている。
 
さて、例えばこの一節に隠喩がなかったならば、それはどんな文章になるだろうか。
すなわち、この一節が「ボアズはケチでも恨みがましくもなかった」であったならばどうだろうか。
然すればこの一節は、言うまでもなく、単にボアズの性格を言い表した文章にすぎなくなる。
そこからは何ら新たな意味作用も生まれてゆかない。
 
ところが、実際にはユゴーは、「ボアズ」を「彼の麦束」に置き換えることによって隠喩を作り出している。
そしてこれによって、麦束が持つ「豊穣さ」や「実り」――あるいは子どもを作ることと言ったファリックな意味作用が、
ボアズにも波及し、この隠喩を経てることで彼は父性の意味作用を新たに獲得するのだ。
 
ここで敢えてラカニアンを参照し続ければ、
このような隠喩によってこそ、人間は主体化を果たすのである。
すなわち、「麦束」というボアズならざる語が「ボアズ」に対し抑圧的に、垂直的に、隠喩的に導入されることで、
人間(ボアズ)は、無意識という下層領域を有した近代的かつ多層的な主体として確立されるのである。
 
 
 
もっとも、精神分析的な言説や構造主義的な言説に抵抗がある人もいるかもしれない。
別のアプローチをとるなら、OOOを代表する哲学者であるG・ハーマンから引いてもいいだろう。
 
ハーマンは「チャーチルはルーズベルトのようだ」という比喩と、「杉は炎のようだ」という比喩を使って、
換喩と隠喩について論じている。すでにお分かりの方も多いかもしれないが、前者が換喩であり、後者が隠喩である。
なぜならば、前者について言えば、そこで比較されている二項は、歴史上あきらかな類似点を持っている二項であり、
そこに不和が生じる余地が存在しないからだ。
 
翻って、後者の比喩――つまり隠喩がもたらす効果には油断できない。
確かに杉と炎は形において漠然と類似しているが、この類似性は偶然的なものに過ぎない。
だがしかし、それはチャーチルとルーズベルトの類似性とは明らかにその本質を異にしているは明らかだ。

 
では、換喩が前述したように両者の互換性によって成り立っているならば、隠喩は如何にして成立しているのだろうか。
ハーマンに従えば、この隠喩においては、明白な<炎-性質>が木そのものの特徴として杉のまわりに群がるっているという。
しかし、ここで言われる杉とは、素朴実在論的な意味での杉ではありえない。むしろこの杉とは、
私たちの注意をそれへと釘付けにすると同時に、退隠した謎のままであり続ける別なる存在なのだ。
先の文脈に換言するならば、ルツとの性関係を望むボアズの願望は、麦束という語への置き換えによって、
無意識へと――すなわち私たちがアクセスできない別の場へと退隠させられるのである。
 
だが、そうだとすると、
ボアズ=杉は如何にして隠喩に参与することが可能になっているのだろうか。
つまり、もしボアズ=杉が不在の虚空にすぎないのであれば、
隠喩とは、私たちがアクセス可能な<炎-性質>のみによって成立しているのだろうか。
 
おそらくそれは隠喩の一側面でしかあり得ない。
性質は対象なしには存在することはできないため、
<炎-性質>は必ず何らかの実在的対象に帰属しているはずである。
 
そして、強調して言えば、ハーマンの隠喩論の面白さはこの不可能性をめぐる跳躍にある。
 
 
 
ハーマンの驚嘆すべき解答とは次のとおりだ。
 
すなわち、仮に杉の存在が退隠していたとしても、
また炎が実在依存的な性質でなかったとしても、
その場には、もうひとつだけただ一つの実在的対象が居合わせているはずだ。
それは、退隠することなく隠喩という状況に丸ごと巻き込まれながら存在している対象――
つまり詩の読書(あるいは一読者でもある著者)としての私たちひとりひとりである。
 
そしてハーマンに従えば、
実在的な杉が不在であり、それに感覚的な<炎-性質>を結びつけることが不可能である以上、
私たちは不在に際してそれを埋めるため、私たちひとりひとり自身の存在を、
<炎-性質>に結びつける実在的対象として投企するより他なくなるという。
より挑発的に換言すれば、読者としての私たちひとりひとりが、杉の退隠に導かれ、そこで杉の木になるのである。
僅かに補遺を述べれば、この議論はラカニアンによる「対象aになれ」という分析家のディスクールと奇妙なまでに一致するのだから興味深い。
 
が、いずれにしろ、隠喩は私たちに対して、
私たちひとりひとりの存在を、対象の不在――そして恐らくそれは複数の不在――に向かって投企することを求めるのだ。
すなわち、隠喩は私たちに対して「没頭」を求めているのであり、ある種の「真摯さsincerity」を求めているのである。
このためハーマンにとって隠喩とは、ハイデガーのそれと同様に、あるいはそのフロイト化を行ったラカンと同様に、
近代的な倫理(「真摯さ」)と決して無縁ではありえず、よって近代的個人の屹立と不可分な問題だと言える。
 
 
 
そして繰り返し注釈として述べるが、後にこの価値を転倒することを前提に敢えて言えば、
本作『ケムリクサ』は、少なくとも消費環境をめぐっては、この近代的主体を基礎づける隠喩の構造を、
徹底的に排除しながら歩んだ作品だと言わざるを得ないと思う。
 
そこでは、あたかも新しい意味作用や無意識の形成を拒否するかのように、
非情なまでの換喩(=言葉の横滑り)が行われ、近代的主体や意味という概念は、
それこそ文字通り、ケムリのように霧散し続けていたように見受けられる。
 
 
 
以上までで『ケムリクサ』を取り巻いた消費環境についてみた。
では物語は、『ケムリクサ』という物語は何を描いていたのだろうか。
それを示すために、随分先に述べた『君の名は。』との違いに言及しようと思う。
 
 
 
なお、ハーマンの隠喩論を僅かばかり補足する。
 
ハーマンが唱える隠喩の倫理とは、逆説的に言えば、
批評における皮肉、自己反映、敬遠の終焉を告げるものでもある。
すなわち、作品をどこでもないところからあざ笑い、こき下ろすような批評なあり方は、
隠喩の失敗を、近代化の失敗を、主体化の失敗を代表象するもの以外の何ものでもないとされる。
それらは、対象の不在に向かって私自身の存在を投企するのではなく、対象の不在にかこつけ、
在りもしない非-実在の対象をパラノイアの如く立ち上げているにすぎないのだ。
 
こうした偽-隠喩は、恐らく換喩の全体化以上に避けられなければならないものだ。
 
ハーマンに従えば、良質な芸術/批評とは、
私たちを舞台の中に位置づけ、実在的対象の代役を務めさせると同時に、
<炎-性質>を従えた杉の役を演じさせる/演じるものを言う。
 
そしてその意味において、
ハーマンにとってあらゆる芸術とは、須らく舞台芸術なのである。

 
 
 
 
 
5. < デッドコピーの死 >

 
さて、『君の名は。』と『ケムリクサ』の相違点とはどこにあるのだろうか。
 
端的に結論から述べると、
それは『君の名は。』が「あの三葉」の救済に成功したのに対して、
『ケムリクサ』は「あのワカバ」の救済を放棄した点にある。
 
すなわち、『ケムリクサ』をめぐって議論されるべきこととは、「りり(=最初の人)」が救われた否かではない。
「あのワカバ(≠わかば)」がどうしようもなく死んでしまっている点をこそ、私たちは直視すべきなのだ。
あるいは「りん」が「あのワカバ」の救済に、そもそも関心すらないことを私たちは直視しなければならない。
言うなれば『ケムリクサ』が、『君の名は。』に留まらずあらゆる「ループもの」からが一線を画している点とは、
この「あのワカバ」への無関心なのである。
 
本来ループものとは、失われてしまった「あのワカバ」の救済不可能性をこそ主題とする作品群であった。
2011年には、救済不可能性に身を裂かれた少女が、ある種の狂気で以てその固有名を引き裂いたほどだ。
従来の新海作品もまた、「あのワカバ」との決定的な断絶を、アニメを用いて時空間的な表象で以て描いた作品として評価されていた。
それゆえ、『君の名は。』(2016)が、従来不可能として描かれてきた「あのワカバ」の救済を成功させてしまったことに、
それまでの新海作品の視聴者は驚きを隠せなかったのである。
 
だが、それでもまだ、2016年に公開された『君の名は。』は、
「あのワカバ」に対する関心を決して失っていなかった点において、
従来の「ループもの」と同じ系譜にあると言って良いだろう。
 
しかし『ケムリクサ』(2019)においては、
もはや「りん」は「あのワカバ」をそもそも救おうとはしない。
あるいは「りり」は「あのワカバ」を救うことを素朴に諦めていく。
視聴者もまた「あのワカバ」の救済については完全に無関心を貫いている。
代わりにそこで成し遂げられたものとは、デッドコピー(りん)によるデッドコピー(わかば)の救済、
もしくは救済自体のデッドコピーである。
 
 
 
この救済のデッドコピーが許容されることは驚くべきことだろう。
言うなれば、「りり」による「ワカバ」の救済が、「りん」による「わかば」の救済に横滑りしたわけだが、
もしこの置き換えが隠喩的に機能したのであれば、私たちはこのデッドコピーに際して、
死して亡霊となった「あのワカバ」が放つ不気味な声を無意識に聴くはずである。
実際に、「りり」の救済の不明さについては、既に議論が巻き起こっている。
 
だが、それが全体的な批判として機能しないのは、
『ケムリクサ』という作品とその消費環境が、隠喩ではなく換喩によって、
すなわち、ある言葉からある言葉への不和のない遷移によって全体化されていたからなのではないだろうか。
もし仮に『ケムリクサ』という作品が、換喩の全体化に成功していたならば、「りり」による「ワカバ」の救済から、
「りん」による「わかば」の救済へというあの横滑りについて、視聴者が不和を感じなかったとしても不思議ではない。
あるいは、明らかに意味の異なる「好き」が、作品全体を水平に滑り続けることが可能になるのだ。
 
すなわち『ケムリクサ』が成し遂げたものとは、
救済自体の完全なるコピー、あるいはデッドコピーの死なのである。
 
 
 
そして敢えて言えば、本稿の狙いとは、
この「換喩の全体化」あるいは「デッドコピーの死」に対して価値転倒を企てることである。
つまり、『ケムリクサ』の視聴者は、むしろこの横滑りに対して異議申し立てをすべきではない、というが論旨なのであり、
言い換えれば、近代的主体を基礎づけた隠喩からの離脱、その萌芽として『ケムリクサ』を試すことが、本稿の主旨である。
 
いや、価値転倒は無理かもしれない。
しかし、その可能性を残すことはできるのではないか。
そのような試論が本稿なのである。
 
 
 
 
 
6. < 貧者の生存戦略 >

 
だが「換喩の全体化」を論じるにあたり、換喩についてより詳細に理解するため、
今しばらく換喩を否定的に扱ってきた過去の研究を参照する必要がある。
 
今一度問うならば、換喩とは如何なる操作なのだろうか。
再びラカン派の精神分析を、今度は臨床的な側面から参照しようと思う。
 
さて、精神分析において、
換喩(あるいは遷移)が問題になる代表的な臨床例とは、強迫神経症であろう。
強迫神経症とは、例えば洗浄強迫や確認不安に代表される症状を持つ神経症である。
もう少し具体的に言えば、洗浄強迫とは、手洗い行為を頻繁に繰り返すことであり、
確認不安とは、ドアの施錠やガス栓の閉鎖などの確認行為を頻繁に繰り返すこと言う。
 
こうした強迫神経症(例えば洗浄強迫)について精神分析は、
「手洗い」というどうでも良い表象を絶えず意識しておくことによって、
病因的な表象を直視することを回避・抑圧することに成功しているのだと考える。
すなわち、強迫神経症において病因的な表象は、「換喩」によって取るに足りないどうでも良い表象に横滑りするのだ。
実際に強迫神経症において反復される行為は、患者自身にとっても無意味と感じられていることが殆どである。
だが強迫神経症者は、この無意味への横滑りを経ることではじめて、決して退却を許さないような病因性の強い”衝動”を、
安全かつ不断に湧出させ続けることを可能にしているのだ。
 
 
 
言うなれば、換喩とはスライドパズルのようである。
スライドパズルとは、バラバラの15枚のピースをスライドさせることで、ひとつの絵を完成させるパズルだ。
強迫神経症とは、ある意味でこのスライドパズルのピースを何度も何度も、横に縦に滑らせることを言うのだ。
そして、強迫神経症者は恐らく幾度となく幾度となく、ひとつの絵をスライドパズル上で完成させるのだろう。
 
だが、その完成した絵-表象が、強迫神経症者を満足させることは決してない。
なぜならば、スライドパズルが描く絵には必ず欠如が存在するからだ。
つまり、スライドパズルには「15枚のピース」に加えて、「1つの空白」が必ず存在しているのである。
強迫神経症者は、決して埋まることのないこの空白によって完成した絵から満足を奪われているのであり、
そのため、強迫神経症者はピースを幾度となく、それを無意味と知りながら動かし続けなければならなくなるのだ。
 
だが、他方でこの欠如こそが、スライドパズルにおける「横滑り」を可能にしているものに他ならない。
したがって、強迫神経症者は、ピースの欠如によって満足(=絵の完成)を奪われているのと同時に、
ピースの欠如に基づく横滑りによって、絵の完成が不可能であるという現実を抑圧することに成功しているのだ。
 
 
 
実際に、『ケムリクサ』の完成した表象には、
ひとつの、あるいはひとつ以上の欠如が確かに存在している。
それはEDのシルエットにこそ、残酷なまでに記されている。
 
挿図1. 12話EDより


挿図2. 12話ED と 11話EDの比較

 
 
さて挿図1.にある通り、
12話のEDでは、確かに「ワカバ」と「りり」の姿が美しく浮かび上がっていることが分かる。
また、11話のEDと比較しても、「ワカバ」と「りり」の救済や成長を見て取ることができるはずだ。
だがしかし、それでもこのEDを注意深く見れば、二人の間の距離感が何ら変わっていないことにも気が付くはずだ。
つまり12話に至ってなお、二人の距離は「りり」が「ワカバ」を求めて赤いケムリクサを生み出してしまったあの11話の距離のままなのだ。
 
そこには依然として不可能な「空白」が横たわっている。
ゆえに、『ケムリクサ』をめぐる消費環境は、この「空白」の補完を求めて設定考察というピースの横滑りに走るか、
後日談という補填を求めるしかなくなってしまっている。そして、そう欲望する限りにおいて、
私たちはこの「空白」を含んだ絵を、結末として直視することを回避し続けられるのである。
 
 
 
このため、換喩(=横滑り)とは、私たちにとって1つのアポリアであると同時に、
不可能な現実から逃れるための1つの生存戦略でもあると言うより他ない。
つまり、横滑りとは、欠如に対する生存戦略なのだ。
 
作品論に引きつけて語り直せば、
すなわち換喩とは、隠喩がみせる実在の退隠に対する生存戦略だと言える。
それは、退隠してしまった杉(=あのワカバ)の場へと投企すべき、「私」の欠如に対する生存戦略なのであり、
同時にそれは、「私」の投企によって獲得される近代的な倫理と主体の貧困に対する生存戦略なのである。
 
 
 
ゆえに『ケムリクサ』が描き、それを取り巻いたものとは、
現代社会によって疲弊し、投企すべき「私」を搾取され続けた貧者たちの生存戦略なのである。
 
現に『ケムリクサ』が主として描いた世界には、明らかに近代的な豊かさが欠落していた。
またそうした欠如は、奇しくもヤオヨロズの描く貧相な3DCGモデルに符号しているように見える。
あるいは、そもそも3DCGモデル自体が、内部を欠落した貧相な表象であると言えるかもしれない。
さらに、モデルはプログラミングという徹底した記号の横滑り体系によって構成されていることも分かる。
 
恐らく『ケムリクサ』を取り巻いたものたちは、
『ケムリクサ』が描くこうした「貧しさ」に向かって「自らの貧しさ」を自己反映させることで、
横滑りという生存戦略を、自らのうちに取り込もうと欲望したのではないだろうか。
 
実際的な問題として、近代的な倫理としての隠喩によって生じた剰余は、
現代に於いては、ただひたすらに搾取され続ける対象にすぎないようにも見える。
よって、剰余の生産者たちが、こうした搾取に対する抵抗として、
横滑りという可能性に一縷の望みを託す感情は理解できる。
 
 
 
が、しかし、言うまでもなく、資本主義とはそれすらも呑み込んでいくものである。
そしてこの現実は、皮肉にも『けものフレンズ』がよく示しているだろう。
とは言え、横滑りに何かを託す人々は、恐らくそれが分かっていてなお、
むしろその現実を自らの手によって忘却しながら、ひたすらに横滑りへとその存在を懸けているのかもしれない。
なぜなら、敢えて繰り返すと、この強迫的な逃避こそが換喩の示す機能に他ならないからだ。
 
 
だが、かつての「ループもの」とその批評が取り組んできた振る舞いとは、
それでも、あの「空白」をこそ媒介して、真摯さsincerityとともに「私」を没頭させ、
そこに於いて失われた対象に、ひとつの倫理として「私」を贈与し続けるというものではなかったか。
 
果たしてなぜこの振る舞いは不可能になってしまったのだろうか、残念でならない。
 
 
 
などというチープな話に至らないよう、
私たちは『ケムリクサ』に対して真摯さとともに、
価値転倒を企てなければならないのである。
 
 
 
 
 
7. < 人類以後の人類 >

 
さて、上述の議論の問題点はどこにあるのだろうか。
 
端的に言うと、それは画面を見ていないことにある。
もう少し真面目に答えると、上述の議論は余りにも『ケムリクサ』の重要な部分を捨象しすぎている。
 
例えば何を捨象してしまっているのだろうか。
最も重要な論点は、たつき監督が常に「人類以後の世界」を描いているということだろう。
もちろん『けものフレンズ』も『ケムリクサ』も、人類の絶滅が明言されているわけではない。
むしろ人類の生存が消極的な形でありつつも確かに示唆されている。だが、作品の主要な舞台では常に人類は絶滅しており、
『けものフレンズ』も『ケムリクサ』も、ともに「ポスト・アポカリプス」としてカテゴライズされる場合が多い。
 
つまり、たつき作品において描かれているヒトとは、
私たちが通常想定するような自我を持った近代的主体などでは決してなく、
あくまでも人類以後の類-人類なのである。
言い換えるとフレンズね。
 
 
 
では、人類以後の人類を描く作品群に対して、
果たして私たちは人類的な観点からアプローチして良いのだろうか。
 
例えば、私は先程『ケムリクサ』に対して、「貧者たちの生存戦略」を描いた作品だと評した。
しかし、貧者という表現は余りにも現生人類に寄り過ぎてはいないだろうか。
最新の研究で、どうやら類人猿には「憐れみ」の概念があることが知られてきたが、
しかし「貧困」という概念は余りに人類的であるように思われてならない。
実際に、猿が貧困に悩む姿を私たちは想像しにくいだろう。
 
あるいは、生存戦略という表現、特に戦略という表現は現生人類に近すぎるはずだ。
例えば、チーターはある程度の生存競争のなかで生存していると思われるが、
その競争中に人類的な意味での戦略を構想しているとはとても思えない。
 
ゆえに、これらの問題系と同様に、
『ケムリクサ』に対して「貧者たちの生存戦略」などと評するのは必ずしも正しくないだろう。
それは単に「類-人類たちの生」とでも名付けられるべきものだ。
 
 
 
ここにおいて、私たちが世界の偶然性と多様性を認めるならば、
私たち以外の人類史として提出された「類-人類たちの生」に際して私たちは、
近代性における必然性の不在を、個人の意識としてのみならず、個人を超えた構造として捉え、
乗り越え不可能な根源的事態として、諸概念―今回なら言語と隠喩――を設定することを避けるべきだろう。
 
もしくは、この必然性の不在に際し、ヘーゲルが語る理性、シェリングが語る自由、
ショーペンハウアーやニーチェが語る意志、あるいはドゥルーズが語る萌芽状態の自我といった、
近現代の主観主義的形而上学の絶対化で以て、それを(近代的)思考の属性として絶対化することを回避すべきだ。
 
 
すなわち、私たちがたつき作品に相対するとき、私たちは、そこで期せずして描かれている<貧困>を、
私たち自身の思考とは独立したものとして、ある別の仕方で思考することを、いま求められているのではないだろうか。
 
 
 
そして、これは余談であると同時に本論でもあるのだが、
この意味において、隠喩ならびに退隠という観点から、対象を還元的な戦略から守ろうというハーマンのアプローチを、
Q・メイヤスーがハイパーフィジックスとして認めると同時に、主観論主義的だとも批判するのは、
至極正当なことであるように見受けられる。
 
すなわちハーマンは、事物に対する人間の関係を事物同士への関係へと一般化しているのであり、
一方でハーマンは、対象の複数性に留意することでハイデガーとの差別化を図ったが、
他方で中期ハイデガーが注意深く避けんとした罠に嵌まり込んでしまったのではないだろうか。

 
 
 
 
8. < 伊藤計劃以後 >

 
さて、いずれにしろ、
『ケムリクサ』が、ただ「類-人類たちの生」を描いたと呼ばれるべきであるのと同じように、
『ケムリクサ』が描いたあの横滑りもまた、恐らくポスト人類なものとして考察されるべきだろう。
すなわち、たつき監督とは、人類以後の人類による言語の横滑りについて描く作家なのだ。
 
では、たつき監督の他に、
人類以後の人類による言語の横滑りについて描いた作家はいないのだろうか。
 
 
 
敢えて挙げれば、恐らく伊藤計劃こそがその一人だろう。
 
と言うよりも、伊藤計劃は正しく、近代的主体であった当時の私たちに対し、
言語の横滑りに享楽するポスト・ヒューマンというディストピアを暴露せしめたから、
「伊藤計劃以後」などと言ったコピーとともに、今なお不死化しているのである。
 
言うなれば、『ハーモニー』とは、言語から剰余が、すなわち隠喩という技法が、
つまり近代的な意味での個人が失われた世界について描いた作品だと言える。
『ハーモニー』がユートピアの臨界点として描き出した世界では、まるでプログラミング言語かのような、
あるいは前述を引くと、徹底した記号の横滑り体系によって構成されたetmlコードが世界を全体化している。
よって、『ハーモニー』とは、「換喩の全体化」をディストピアとして描き出した作品なのだ。
 
そして伊藤計劃は「換喩の全体化」あるいは「隠喩の終わり」に対し、
どこか不可避めいたものを内含させることで、当時立ち現れつつあった「終わりゆく近代」の顔を見事に描き出していた。
敢えて言えば、その避けられない「換喩の全体化」の平面に、近代的主体が自らの意思でもって、
軋みながら書き込まれんとした作品が『屍者の帝国』である。
 
つまり、伊藤計劃にとって避けられない未来として訪れる人類以後の人類とは「屍者」だったのである。
そして、伊藤計劃が描いたその未来は、当時の私たちにとって余りに避けがたく見えたため、
私たちは「伊藤計劃以後」というコピーを不死化するより他なくなったのだ。
 
現に、伊藤計劃が生きていた時代に比べてなお、現在「隠喩」は消滅しつつある。
Project Itohの結末ひとつをとっても、それは容易に知ることができる。
 
 
 
だが、敢えてチープさを引き受けながら言えば、
たつき監督が描く人類以後の人類は、伊藤計劃が描いたそれとは価値観を異にしているように見える。
すなわち、一方で伊藤は、動物であることをやめ人類以後の人類となったものたちを「屍者」と形容したが、
他方でたつき監督は、それを「フレンズ」あるいは「ヒト」と呼んで見せたのだ。
あるいは、伊藤がユートピアの臨界点として描くより他なかった未来を、
少なくともディストピアではない未来像として描きなおしているのである。
 
そして、この点においてこそ、たつき監督による伊藤計劃の転倒可能性――
あるいは「伊藤計劃以後」の世界の転倒可能性が、すなわち「換喩の全体化」の転倒可能性が、
朧気ながら示唆されているのではないだろうか。
 
少なくとも、『けものフレンズ』と『ケムリクサ』が示した未来像は、
9年前、伊藤計劃が『ハーモニー』を出した時代には考えられないほどの支持を集めている。
翻って、恐らく伊藤計劃が当時提出した未来像は、むしろ現実になることによってその支持率を落としているように見える。
つまり私たちは、『ハーモニー』の結末で伊藤計劃がetmlによって予言的にコードした通り、
とても幸福になりつつあるのだろう。「ハーモニー・プログラム」は漸近的に現実化しつつあるのだ。
 
その意味で、相変わらず私たちは伊藤計劃以後の世界の内部にいると言えよう。
だが、幸か不幸か、どうやら ”この伊藤計劃以後の世界” は、伊藤計劃が予想した以上に人々から愛されてしまったようだ。
その意味において、たつき監督は、かの二作品を通して、伊藤計劃とは異なる世界を作り出したと言えるのではないだろうか。
 
 
 
確かに伊藤計劃は、言語の横滑りから世界の多元性(=多層性)を保護するために、
近代的意志の悲劇を感傷的に美しく描いてみせた。だが、結局のところ、伊藤計劃が守ろうとした世界もまた、
近代的意志が絶対化した、一元論的な世界だと言い放つことが可能なのではないだろうか。
そこには僅かばかりの程度の差と、強度の差が剰余として残るのみなのであり、
それゆえに「伊藤計劃以後」というコピーは空虚さを拭えない。
 
伊藤計劃は、近代の豊かさを守ろうと、人類以後の人類を貧しく描いたために
むしろ現生人類の貧しさを、すなわち「隠喩の絶対化」の貧しさを逆説的に描き出してしまったのだ。
 
 
 
 
そうではなく、より世界を豊かなものに。
 
  
この意味において、伊藤計劃がユートピアの臨界点として描いた世界が、
その異質性(=横滑りの全体化)を保護されながらも、想像以上に多くの人々から愛されてしまったことは、
実はこの世界に住む私たちにとってこそ、喜ぶべきことなのではないだろうか。
 
そこでは、近代の臨界点でしか在り得なかった世界が、人々に愛される世界へと置換されたのであり、
言うなれば、そこでは臨界点が割れたのである。
 
そして、まさに世界が不条理で、いたるところでひび割れ、二分割されているものとして願うこと、
そう企図し、いたるところに本性的な差異を見出さんと試みたのがQ・メイヤスーなのであり、
期せずしてこの世界の地割れを成功させたのが、たつき作品なのではないだろうか。
 
 
 
2019年、平成も終わるこのとき、ひとりのアニメ監督の手によって、
ようやく私たちは、伊藤計劃とは異なる世界に足を踏み入れようとしているのかもしれない。
 
いま近代の臨界点は引き裂かれたのである。
 
 
 
 
 
 
9. < 終わりに >

 
さて、価値転倒は成功したのだろうか。
判断は読者に委ねようと思う。
 
また敢えて言えば、結局のところ、
本稿はあくまでも『ケムリクサ』に対して隠喩的に、すなわち近代的に振る舞っているに過ぎない。
そして私は、たつき監督とは随分と異なる形で、伊藤計劃とは違う未来を描きたいと考えている。
そのため、残念ながら私は、たつき監督の描く世界にはあまり共感できていない。
 
だが、それでも、平成が終わるこのとき、
かつて伊藤計劃が悲観した未来が引き裂かれつつあるのであれば、
それを描かんとする作家を無碍にすることなどできるはずがあるまい。
 
 
 
ただ他方で、その新しい世界は伊藤計劃の目にどのように映り得たのだろうか。
それはもう分からないままだ。
 
奇しくも伊藤計劃は、恰もひとりのミァハであるかのように、
この変形しつつも実現しつつある「ハーモニー」に参加しないままこの世を去ってしまった。
 
果たしてそれは伊藤計劃にとって幸福なことだったのか、それともそうではなかったのか。
今はなき伊藤計劃をめぐっては、ただ思いを馳せることしかできない。
 
 
 
 
 



コメントする1個

3.
2018/12/29 (2018/12/31更新) 2018年アニメ > 2018年 アニメ 感想+考察まとめ ーー 宇宙よりももっと近くへ。」
[この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:1個

今年は本サイトでの活動を控えていたが、2018年も終わるということで、
平成最後の年のアニメを簡潔に振り返ろうと思う。
 
 
 
 
◯ 宇宙よりも遠い場所

本年のアニメを語る上で外すことができない作品といえば、
良い意味でも悪い意味でも、やはり『よりもい』になるだろう。
 
一方で、『よりもい』をめぐる盛り上がりもまた、
『ポプテピ』のそれと同様に瞬間風速的な消費に過ぎなかったという指摘は、確かにあり得て良いと思う。
したがって、2018年を代表する作品に『よりもい』を位置づけることに対し、抵抗感がある人もいるかもしれない。
しかし他方で、『よりもい』をめぐる盛り上がりは、より重要な論点として『君の名は。』に接続されるべきだろう。
つまり『よりもい』は「青春と資本主義の融合」という系譜のひとつの勘所として位置づけられる必要がある。
 
この系譜とは、先日川村元気が『ベイビーアイラブユーだぜ』で以て極端に示したものに等しい。
具体的に言うと、それは、『君の名は。』において川村元気が、アニメのプロモーションビデオ化を通じて、
「青春の暴力」と「資本主義(≒多様性の原理)の論理」をフラットに融合してみせたことに始まっている。
より詳細に言えば、その系譜とは、「青春の美しさ」を利用した「悪いもの」の忘却・排除と、
「資本主義の論理」に基づく自己責任論・自己救済の幻想との接合によって成る。
 
このように『君の名は。』は「青春の暴力」と「資本主義の論理」の接合を志向し、
青春が放つ絢爛な感情を一面的なものとしてみなしながら、それを「力」として極端に用いることで、
これまで平成のアニメが忌避し続けてきた「自己救済」の幻想を屹立させることに成功したのだ。
 
だが、この種の自己救済の幻想とは、
例えば『エヴァンゲリオン』や、他の新海作品がそうであったように、これまでの平成テレビアニメが、
青春が本質的に放つ泥田のような感情を用いることで、むしろ無限遠に投棄し続けてきたものだと言える。
すなわち私たちは、自己救済の不可能性と他者性の志向をこそ、平成アニメの価値観として共有し続けてきたのだ。
 
 
 
そうした文脈のなかで登場した作品が『宇宙よりも遠い場所』なのである。
『宇宙よりも遠い場所』は、「やりがい」を代表とする「青春の美しさ」を無批判のうちに押し出すことで、
「多様性の原理(=資本主義の論理)」が本質的に内含してしまうはずの他者性を「悪いもの」として消失させ、
資本主義の論理を ”純粋化” するとともに、その派生系である自己責任論を暴力的に転倒することで、
自己救済の幻想を奇跡のように打ち立てた平成最後の年のテレビアニメだと言える。
 
もっとも、こうした「青春の力を利用した自己救済の仮構」は、
不完全ながらも、これまでのテレビアニメ作品にも垣間見られることは確かだ。
例えば、2016年に放送された『SHIROBAKO』は顕著にそれである。『SHIROBAKO』は、青年たちによる自己救済と、
アニメによるアニメの自己救済を重ねながら打ち立てられた倒錯的な作品だったと言える。
だが、それでもなお、『SHIROBAKO』における「青春」はあくまでも不完全であった。
なぜならば、少なくとも彼女たちは、自らが放つ青春の力を無批判には信頼しておらず、
その点において、テレビアニメにおける「青春と自己救済の融合」はまだ不完全だったからだ。
この他に、類似の議論は『響け!ユーフォニアム』などの作品を以て展開することは可能だろう。
 
そして、上述の文脈を踏まえて言えば、
『宇宙よりも遠い場所』こそ、はじめて「青春と自己救済」の完全な融合に踏み込んだテレビアニメなのであり、
これゆえに『よりもい』は、平成最後の年である2018年を代表する作品として相応しいと考えられる。
 
 
 
しかしながら、一つの前提として、
自己救済の幻想を打ち立てること自体は、必ずしも批判されるべきことではない。
少なくとも、もはや現代における救済とは、神によって行われるものでは決してなく、
また父によって行われるものでもないのだから、私たちはある程度の範囲で自己救済を求めるより他ない。
実際に世界はそのように変化しつつある。
 
だが他方で、例えば戦後レジームからの脱却や、グローバリズムからのナショナルな脱却などが、
「美しさ」を利用したひとつの特徴的な自己救済の態度で以て論じられていることには留意が必要だろう。
私たちは自己救済を欲しているのと同時に、そのなかでも特に欲望しがちな形態があるということだ。
そして、あえて言えば、本作『よりもい』はその欲望を正確に捉えていたように見受けられる。
よって本作が、国内外を問わず、人々の欲望を集-立(Ge-stell)したのは妥当なのだろう。
 
しかし、それゆえに、後に書くように、今後私たちは、
ひとつに、平成アニメが描き続けてきた「自己救済の順延」は終わらせつつも、
一方で、「青春」や「美しさ」による短絡的な「自己救済の欲望」には抵抗しながら、
他方で、それとは異なる形の「自己救済」を、新たに模索していく必要があるのではないだろうか。
 
以下、本稿では、いくつかの作品における「自己救済」の形態をみていく。
 
 
 
なお、せっかくなので『よりもい』をめぐる海外のレスポンスを紹介しようと思う。
 
まず、この国でもそうであったように、一般的に言って、海外での『よりもい』の評価も割れている。
つまり、放送開始当初と比べて、大きく評価を上げたサイトもあれば、反対に大きく下げたサイトもある。
例えば、ANNでは、同シーズンの作品中7位からスタートしたものの、最終的には最も評価の高い作品に躍り出た。
他方で、MALでは、シーズン当初は9.1point(歴代7位)と極めて高いScoreから始まったものの、
シーズン終了時には8.61point(-0.5point)にまでScoreが落ち、類を見ない下げ幅となった。
同時期に放送された『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(VE)』と比べると、Scoreについては、
『VE』が8.60pointであるため、『よりもい』側が僅か0.01pointながらも上回っているものの、
Popularity(≒視聴者数)については、『よりもい』側がトリプルスコアをつけられてしまっている。
 
もっとも、Popularityをめぐる決定的な敗北は、基本的にはマーケティングの問題にすぎないと言える。
実際に、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が全世界向けに製作・配信させていたのに対して、
『よりもい』は内容を鑑みても、明らかにドメスティックな消費が前提に製作・配信されていた。
例えば海外ユーザーは「日本に住んでいるとオーロラを見ることは特別なことなのかもしれないけれども、
僕の家からはドアを開けるとすぐそこに見えるよ。」というジョークが寄せられている。
 
 
 
とはいえ、本作が描く「自己救済の幻想」は、
いくらかの人々にとって重要な出来事であることは確かだろう。
  
では、本作のように「青春の暴力」と「資本主義の論理」の接合に突き進むのではなく、
仮にそれらから距離を維持したままこの幻想を目指すのであれば、
そこには如何なる可能性が残されているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
◯ ひそねとまそたん
 
『よりもい』の他に「自己救済」を仮構する作品は、例えば何があったのだろうか。
端的に分かりやすいのは『ひそねとまそたん』だろう。
 
とはいえ『ひそまそ』は、さすがに『よりもい』ほど短絡的な自己救済は描かない。
一方で本作は、ひそねと小此木という「性関係」を中心とするセカイの救済を延期し続けた代わりに、
他方で、ひそねとまそたんという「鏡像関係」を中心に据えることで、ひそねと国家の救済を同一化し、
それらを救済してみせる。『ひそまそ』において甘粕ひそねは、自らの分身としてのまそたんを、
ひとつの媒介(=鏡)として用いることで救済を遂行するのである。換言すれば、『ひそまそ』のそれは、
同じ欠如を抱えた同質な友人を、鏡(=左右が反転した分身)として用いることで実現が可能になる救済だと言える。
 
しかし、この救済は、先に例に上げたような平成アニメ作品とは大きく異なる方針だろう。
例えば『エヴァ』は、母と息子というその本質を全く異にする二者の融合によってセカイを破滅させるし、
新海の『星を追う子ども』では、森崎先生はアスナを媒介に妻の復活を試みるが、この融合の夢は当然潰える。
 
これらの作品はどれも、体内への取り込みと言った有機的な表象を用いて、自他の境界線を融解させる作品であったが、
一方が、自他の融解をセカイの破滅と結びつけたのに対して、他方は、それを国家の救済と接合するのだから、
その結末は余りにも違うとしか言いようがない。
 
果たして自他の融解は、私たちによる私たちの救済(=自己救済)を可能にするのだろうか。
仮に今言えることがあるとするならば、ひとつに「青春の美しさ」はこの欺瞞を覆い隠すことに成功したが、
どうやら、分身としての有機体との融合という方法では、この幻想を保持することはできなかったということだろう。
 
 
 
さてここで、少し文脈を外して作品について述べると、
樋口真嗣と岡田麿里という組み合わせは、非常に野心的であったように思う。
すなわち、『ひそまそ』においては、全体として物語は男性的な欲望によって支配されていたが、
ところどころ、それらを脱臼させるような岡田麿里らしい性関係の混沌が頭をもたげていた。
 
例えば、Dパイたちがドラゴンに食べられ、吐き出されることで、
それに乗り降りするという設定は岡田によるものだが、これは実に岡田麿里らしいカウンターだと言える。
つまり、平成特撮において無垢な少女とは、自然の代表象としての怪獣と心を通わせる幻想的な存在であったが、
岡田はそれを、怪獣に丸呑みにされた後、ゲロとして吐き出される喪女という形に変奏してしまうのだから、
岡田的だと言うより他はない。
 
また、本作に『ひそねとまそたん』というタイトルを与えた人物も岡田であるが、
融解しゆく「ひそねとまそたん」を、唯一このタイトルだけが「"ひそね" と "まそたん"」として維持し続けていた。
つまりこのタイトルは、人々の救済の欲望に従って融解していく以外に選択肢が与えられなかった「ひそねとまそたん」を、
最後まで異なる二者として維持し続けていた "楔" だったと言える。
 
例えば、本作をめぐっては、もっと抽象的なタイトルや、美しく幻想的なタイトルを付けることも可能であっただろう。
だがしかし、岡田はあえて『ひそねとまそたん』という何の捻りもないダサくてベタベタなタイトルを与えることで、
むしろそれが、鏡を用いた自己救済の物語でもなければ、少女の救済を国家の救済に接続する物語でもなく、
あくまでも "ひそね" と "まそたん" という二人の物語なのだと主張し、
その他者性を保持し続けることに成功しているのだ。
 
 
 
したがって、あえて陳腐さを引き受けながら上述をまとめると、
本作『ひそねとまそたん』では、自己救済に至るべく融解を望む男性的な欲望と、
それを有機的に拒絶する女性作家との対決(=性関係)が、随所で発生していたように見られる。
 
すなわち『ひそまそ』は、オブジェクトレベルでは、自他の融解に基づく自己救済の幻想を描きながらも、
他方でメタレベルでは、製作者間の性関係を維持することで、作品が全体として自己救済の幻想に陥っていくことを、
危うげながらも回避した作品と言えるのではないだろうか。
 
このように、『ひそまそ』をめぐっては、
総監督と脚本家のあいだに非常に理想的な緊張関係を見て取ることが可能であり、
総合メディアとしてのアニメーションという観点では、近年稀にみる成功作だったとも思う。
 
 
 
 
 
 
◯ SSSS.GRIDMAN
 
『SSSS.GRIDMAN』もまた、青春の力に依存しない非-短絡的な「自己救済」を考える上で重要な作品だろう。
 
もっとも、『SSSS.GRIDMAN』について、
如何にあの街がアカネの手によって創造されたものであろうとも、それでもアカネの救済は、
確かに六花らによって行われたのだから、「自己救済」と断ずるには相応しくない、との反論があるかもしれない。
しかし、広く一般に考察されているように、CW(コンピュータ・ワールド)内での六花の姿こそが、
RW(リアル・ワールド)内でのアカネであり、CWのアカネの姿はRWの六花だという説を、本項は採用する。
すなわち、CW六花の姿とはRWアカネであり、たとえCW六花の人格がRW六花の類似物であったとしても、
CW六花によるCWアカネの救済という文脈には、アカネによるアカネの自己救済という文脈が入り込まざるを得ない。
 
なお、これ以外の考察も当然認められてしかるべきだと思う。しかし、この考察は広く一般に理解されているとともに、
私もまた、後述の考察も含めて同様の考察していたため、本項ではこの考察を前提に議論を展開していく。
実際的な問題として、演出を細やかに追うとこれ以外に読みようがないのでは、と個人的には思っているし。
 
いずれにしろ、CWアカネはCW六花に救われると同時に、RWアカネによっても救われている。
よって、これはひとつの自己救済の形を成していると言えよう。あるいは、もっと陳腐な表現をすれば、
あのワンシークエンスは、アカネが自分の弱さを自分で認めて、自分を好きになる過程だったと言うことができる。
そして、やはりこう言えてしまう限りで、『SSSS.GRIDMAN』は自己救済の物語だったと認めざるを得ない。
 
 
 
では、『SSSS.GRIDMAN』のそれは、『よりもい』のそれと同様な自己救済に陥っているのだろうか。
確かに登場人物たちは、みな思春期の少年少女たちであり、彼ら彼女たちの日常は青春と言うに不足しないものであった。
だが、恐らく言わずとも明らかなように、『SSSS.GRIDMAN』のそれと『よりもい』のそれは大きく異なっている。
 
 
差異は大別して2点ある。
 
まずひとつが、あの自己救済が「虚構」であることを、アカネが ”知っている” 点だ。
すなわち、神様であるアカネは、CWの六花の姿がRWの自分の似姿であることを知っており、
それゆえに、神様であるアカネは、その被造物にすぎないCWの六花が為そうとする必死の救済が、
RWの自分によるCWの自分の自己救済という、まるで時の関節が外れてしまったかのような事態に陥っていることを、
嫌というほど ”知ってしまっている” のだ。実際に、アカネはこの事態を知っているからこそ、11話まで彼女は、
かつてフランスの哲学者が近代悲劇の構造として暴いたその事態に陥っていくことを回避するために、
CWの六花(=RWのアカネ)からの説得を唾棄し続けなければならなかったと言える。
 
だがしかし、『SSSS.GRIDMAN』あえてこの自己救済の欲望を諦めなかった。
たとえ、そこで成された自己救済が「茶番」にすぎなかったとしても、あるいはそれが「虚構」にすぎなかったとしても、
そして、それが「茶番」や「虚構」だと ”知っていた” としても、それでもなお、いやあるいは ”知っていた” からこそ、
アカネは、そして『SSSS.GRIDMAN』は、この「被造物による創造主の救済」を引き受けたのである。
 
要するに『SSSS.GRIDMAN』が描く自己救済とは、
自己救済が ”不純” であることを、真に ”知る” ことによって為された救済だと言える。
 
そして、この点で、『SSSS.GRIDMAN』と『よりもい』の自己救済は、決定的に異なっている。
一方で前者の自己救済は、それが「不純」であるということを、アカネが知っていたからこそ成立した救済であった。
他方で後者の自己救済は、むしろそこで成された成長が、極限まで「純粋」であったからこそ成立した救済だと言える。
ゆえに『よりもい』の自己救済は、「青春」という手法を用いて徹底的に「美しく」描かれなければならないし、
その自己救済が「虚構」や「茶番」であることについて、徹底して ”無知” で居続けなければならない。
だからこそ、それを「不純だ」と ”知らせる” ような批判に対しては、
『よりもい』は徹底的に戦わなければならなくなるのである。
 
だが、明らかに私たちは、自己救済の言説が虚構であることを、歴史を通じることで ”知っている”。
また私たちは、恐らくそれが、如何に望もうとも、修正することが不可能な事実であることも ”知っている”。
それゆえに、その事実について ”盲” でありたいと願う欲望が立ち上がることについて、私たちは理解できるはずだ。
 
しかし、自己救済の言説は虚構であり続けるより他ないのだから、
それが虚構であることを ”知らないこと” によって可能になる幻想の構築ではなく、
それが虚構であることを ”知ること” によって可能になる幻想の構築をこそ、
私たちは目指すべきなのではないだろうか。
 
 
 
なお、もう一点は、裕太=グリッドマンの存在である。
すなわち、『よりもい』が徹底して性関係を排除したのに対して、
『SSSS.GRIDMAN』は一定の範囲で性関係を導入した。
 
もっとも、裕太をめぐる問題系は少々複雑で、
アカネの一件と同様に、それを正確に理解するにはある程度の考察が必要となる。
実際には、裕太をめぐる考察はすでに広く一般に成されており、その内容は凡そ纏まっている。
そのため、本項でそれを詳細に述べることはしない。

しかし、例えば裕太にグリッドマンが宿った理由について言えば、
まず裕太とは、アカネが創ったあの街の中で、唯一RWのアカネ(CW六花)を好きになる人間として設定された存在だった。
すなわち、裕太だけが、虚構であるCWのアカネではなく、本物であるRWのアカネを好きになるように定められていたのだ。
また9話にて、夢の中でアカネが裕太と恋人関係を演じたように、RWのアカネにとって、裕太が重要な存在であることは、
明らかだと言って差し支えはないだろう。もちろん、裕太はあくまでもアカネにとってバグ(=失敗作)であり、
誰かCWの自分ではなく、RWの自分をこそ好きになって欲しいという、
アカネの無意識が具現化した登場人物だという考察でも良いと思う。

いずれにしろ、これは1話では語られず、また最後まで語られることはなかったが、
恐らく1話にて、裕太は、CWの六花(=RWのアカネ)に告白したのだろう。
そして、その時にこそ ”グリッドマン” は裕太へと宿ったのである。
アカネの魂を救う特別な名前(=SSSS)として。
 
この点において、『SSSS.GRIDMAN』では、
RWの自分を好きになってほしいという「主体の欲望」と、グリッドマンという「他者」が一体となりながら、
救済という問題系に複雑に関与していると言える。

 
 
 
さて、『SSSS.GRIDMAN』も『よりもい』も、
ともに青春を過ごす青少年たちが、自己救済に至る物語であったが、
その間には大きな違いがあることが明らかとなったのではないだろうか。
 
『SSSS.GRIDMAN』は、宇宙よりももっと遠くて、
それと同時に最も身近な場所である「虚構」こそが、
私たちを退屈から救ってくれる
と描いているのだ。
 
私も原作をリアルタイムで見ていたファンとして、一方では本作と雨宮哲監督には期待しながらも、
他方では、1話から始まった荒唐無稽な展開や、演出面での過度なオマージュには辟易させられていた。
しかしながら、結果的には、原作の正統な続編となっていたことや、上述のように新しい自己救済像を提出した点において、
本作『SSSS.GRIDMAN』は極めて秀逸な作品だと言え、また続編モノとしても見ても大変稀有な出来栄えになっていたと思う。
 
 
 
 
 
 
◯ BEATLESS
 
さて、如何に『よりもい』が2018年において中心的な作品だったと雖も、さすがに度が過ぎるように思われる。
したがって、以下は少々文脈を変えながら本年のアニメを振り返っていこうと思う。
もっとも、ある程度の文脈は維持しながら展開していく。
 
 
「自己救済」を扱った作品と言えば、上述の他にどんな作品があるだろうか。
恐らく作品の内容を単純に評価するのであれば、本作『BEATLESS』こそを特筆すべきだろう。
 
しかし、『BEATLESS』が自己救済の物語なのだという主張は、
即座に理解し難いものではないだろうか。それには一定以上の考察が必要であり、
かつテクスト論的な考察に留まらない間テクスト性を念頭に置いた考察が必要である。
加えて『BEATLESS』をめぐっては『SSSS.GRIDMAN』と異なり、ネット上の集合知も機能していない。
よって、『BEATLESS』においては、具体的な考察をある程度交えながら議論を展開しようと思う。
 
 
 
さて、なにゆえ『BEATLESS』は「自己救済の物語」だと言えるのだろうか。
それを論じるには、まず『BEATLESS』が提出した人間観について述べる必要がある。
具体的に言うと、『BEATLESS』の人間観は、19話にてレイシアによって語られており、
それは人類を「人体と道具と環境の総体」として定義するという人間観であった。
そして、これを採用する限りにおいて、『BEATLESS』は「自己救済の物語」だということが可能になる。
 
 
しかし、全体的な議論を展開する前に、
まず、なにゆえレイシアは人間を「人体と道具と環境の総体」として定義するのかを述べようと思う。
その理由は、『BEATLESS』という作品の内側でのみ悶々と考察するよりも、
『2001年宇宙の旅』との間テクスト性を観ることで明らかになる。
 
なお、『BEATLESS』を考える上で『2001年宇宙の旅』が肝要であることを説明する必要性は、果たしてあるだろうか。
ともにAIの危険性を扱っていることや、レイシアのデバイス名が「ブラックモノリス」であること等から自明に思える。
後者については、例えばDr. Heywood Floydが月面で「モノリス」と対面した際に「Black Monolith…」と呟いている。
 
という具合に、一応『2001年宇宙の旅』を参照する正統性を示した後に、レイシアの人間観について論じると、
この『2001年宇宙の旅』において「モノリス」は、冒頭のシークエンスにて、”サル” と邂逅することで、
サルに ”道具” という概念を与えることとなる。そして、『2001年宇宙の旅』はこのシークエンスを、
「”人類” の夜明け」と名付けているのだ。こうなれば、『2001年宇宙の旅』が人間を如何に定義しているかは、
もはや言うまでもないだろう。これ故に「ブラック・モノリス」の所有者であるレイシアは、
『2001年宇宙の旅』への参照として、人類を「人体と道具と環境の総体」と定義するのである。
 
もっとも、『2001年宇宙の旅』の「人類の夜明け」は、
人類をレイシアのように定義するためのシークエンスというよりも、
人類の進化に地球外知的生命体が関与していることを暗示したものにすぎない。
よって、レイシアによる『2001年宇宙の旅』の参照は、それほど直接的なものではない。
あえて言えば、レイシアによる参照は、『2001年宇宙の旅』の人間観に対する批評的な参照であり、
より踏み込んで言えば、それは『2001年宇宙の旅』が持つ潜在的な可能性に対する二次創作的な参照だと言える。
 
 
いずれにしろ『BEATLESS』の考察に際して、レイシアの人間観を採用する限り、
『BEATLESS』とは、あくまでも ”人類” による ”人類” の救済が志向された物語、
すなわち「自己救済の物語」であったと言う理由は以上の通りであった。
 
 
 
『BEATLESS』の考察に際して、あえて本作を「自己救済の物語」と見做すのは、
作品に対する単純な考察という意味にとどまらない。それは「コンピュータの反乱」という、
『2001年宇宙の旅』を参照することで副次的に発生する主題への応答という意味も含んでいる。
 
すなわち、これはもはや余談になるが、『2001年宇宙の旅』を参照する限りにおいて、
例えば、『BEATLESS』の考察として、レイシアを中心とした陰謀論を企てるのは、
珍論奇論も甚だしいと言わざるを得ないのだ。
 
いや、さすがに奇論は言いすぎかもしれない。
むしろ製作陣は、視聴者が自律的に陰謀論の妄想していくよう、明らかにアナログハックして仕掛けているのだから、
一定以上の視聴者が、本作の視聴に際して、何らかの陰謀論を欲望してしまうのは当然のことだと言える。
しかし後に詳細に論じるように、『BEATLESS』の主題とは、この欲望への抵抗なのだから、
やはり私たちは陰謀論の渦からは可能な限り逃げ去っていくべきなのではないだろうか。
 
 
ひとつに、仮にどうしても陰謀論を企てたいのであれば、
私たちは「ブラック・モノリス」の所有者にすぎないレイシアをその首謀者に見立てるのではなく、
地球外知的生命体である「魁種族」をでもその首謀者として想定する方が正しいだろう。
きっと『BEATLESS』の世界にも魁種族が存在し、「モノリス」を地球に送り込んだのち、
ヒギンズをハッキングすることで、「モノリス」を「ブラック・モノリス」としてレイシアに与え、
これを駆使することによって人類を…などという妄想を繰り広げる方がまだ良いのではないだろうか。
 
もちろん、レイシアではなくヒギンズを魁種族と見立てることは不可能でない。
『2001年宇宙の旅』のそれと比べると、余りにも間抜けで無能な魁種族ではあるが、
それで納得できる人がいるならば、あるいは上述の妄想よりは良いのかもしれない。
 
 
いずれにしろ、『BEATLESS』の考察に際して、『2001年宇宙の旅』を参照しながらも、
「コンピュータの反乱」を描くこと自体が、SF史の参照に失敗していると言われるべきだ。
 
よく知られているように『2001年宇宙の旅』が描いた「コンピュータの反乱」は、
時代的な要因と地理的な要因の影響を大きく受けている。例えば、2001年『A.I』と、
2015年『インターステラー』を参照するだけでも「コンピュータの反乱」の表象史を垣間見ることができるだろう。
何よりも、SF作家のうち「コンピュータの反乱」をめぐる議論について否定的な作家は決して少なくない。
なぜならば、SFが描く未来予想図は、程度の差はあれ、基本的には悉く外れているからだ。
例えば、2018年現在に至るも、未だにアトムは存在していないし、車も空を飛んでいない。
 
また、シンギュラリティをめぐる不安を「コンピュータの反乱」をめぐる議論に投影したい感情や、
その間隙を利用して自身の欲望の投影をしたい感情も理解できる。だが、やはり考察としては、
さすがに『BEATLESS』という作品やその参照先に対して不明でありすぎるのではないだろうか。
たとえ、視聴者たちをそのようにアナログハックするのが、製作者たちの意図であったとしても…。
 
 
 
では、『BEATLESS』は如何なる形態の「自己救済」を描いているのだろうか。
大枠は、先程述べた通り「人体と道具と環境の総体」として定義された人類による人類の救済というものである。
 
あえて繰り返せば、『BEATLESS』は、AIと人類の対決や、AIによる人類の救済・支配を描いた作品ではない。
『BEATLESS』は『2001年宇宙の旅』とH・ベルクソンを批評(=二次創作)的に参照することで、
人類という概念の拡張・再定義をするとともに、その人類の目覚めとして、人類の少年時代の終わりを、
ひとつの「自己救済」の形を以て描いた作品だったのだ。
 
 
 
ならば、人類の少年時代の終わりとはどういうことなのだろうか。
言うまでもなく、これは最終話にて主人公のアラトが語る言葉である。
しかしこの言葉の意味を、直感的に理解するのは容易であっても、
物語全体を踏まえた考察として理解するのは必ずしも容易でない。
 
基本的な情報を共有すると、あの時代における超高度AIは明らかに万能ではない。
端的に言って、超高度AIたちは計算不可能領域に対して無力であり、
例えば、ヒギンズは人間をレベル0と判断するより他なかったし、
レイシアは、それをアラトにアウトソースすることで計算負荷を大幅に削減していた。
 
もちろん、それらは「嘘を吐く道具」たちがついた嘘にすぎないのかもしれない。
しかしながら、人類の少年時代とは、こうした「嘘」に対して疑心暗鬼に成り続ける態度を言うのであり、
もっと素朴な表現をするならば、少年時代の終わりとは、こうした「嘘」に対面してなお、
ある種の「愛」で以てその疑心暗鬼を超克していくことに他ならない。
 
 
 
そして、この「愛」こそがヒギンズの述べる「道具への愛情」なのであり、
人体と道具と環境の総体としての ”人類” に対する新しい「愛」の概念なのである。
 
この「愛」は、性愛としてのエロースでもなければ、
友愛としてのフィリアでもなく、神の愛としてのアガベーでもあり得ない。
それは、人が「道具」に対して抱く新しい形態の「愛」と「信頼」である。
この新しい「愛」と「信頼」が、人体と道具と環境の総体としての人類を支えるのだ。
 
さらに、誤解を恐れず言えば、この「愛」とは、例えば私たちが言うところ「萌え」に近い感情なのではないだろうか。
すなわち、ヒギンズが語り『BEATLESS』が描いた「愛」とは、生命なきキャラクターに対して私たちが抱く愛の感情であり、
この意味において、アラトがレイシアの ”魂” ではなく、その ”形” に拘ったのは、実に正当なことだったように見受けられる。
 
実際に、多くの私たちは、魂などあり得ようはずもないキャラクターたちを深く愛している。
またその愛は、主に彼女たちとの直接的なコミュニケーションによって成されるのではなく、
彼女たちが示すそれらしい記号的パフォーマンスの組み合わせと、ビジュアルによってのみ形成されている。
このような感情は、友愛とは呼べず、また神の愛では決してあり得ない。強いて言えば、性愛たるエロースに最も近いが、
それでも、この「萌え」という感情をエロースと呼ぶのはさすがに避けるべきだろう。
なぜならば、私たちは単純にアナログハックされているに過ぎないのだから。
 
 
 
だが、逆説的に言えば、私たちは自らがアナログハックされていることを ”知っている”。
知っているうえでなお、私たちは虚構であり、人工物であり、道具であるキャラクターを愛してしまうのだ。
換言すると、この「愛」とは、虚実混交によって成立している愛なのではなく、
ある種の倒錯によってこそ成立する愛だと言える。
 
つまり、一方で私たちは、キャラクターがあくまでも虚構であり、
どれだけ彼女を欲しても、それが ”不可能な存在” であることを ”知っている”。
だが他方で私たちは、現実においてもまた、他者を自らの所有物とすることが ”不可能” であることを ”知っている” はずだ。
仮に性愛的なコミュニケーションに至ったとしても、今度私たちは自己という概念を保持し続けることが困難になるだろう。
分かりやすく言ってしまえば、その時私たちの境界は、身体的にも精神的にもグチャグチャになっているのだから、
そうした状態において「”彼女”のことを」とか「”私”のもの」などと、自他の境界を前提にした文章は意味を失う。
このように、私たちの性関係とは、現実においてもまた、ある種の ”不可能性” を本質的に含有してしまっているのだ。
 
だがしかし、この ”不可能性” の共有こそが、
キャラクターを愛するという行為を、つまり「萌え」を支えているのである。
すなわち、私たちは、キャラクターたちが虚構であり ”不可能な存在” だからこそ、
現実の人間との ”不可能性” を愛するように、キャラクターを愛する
ことができるのだ。
 
逆説的に言うと、現実の人間との間で起こる ”不可能性”(=性関係)を愛せない場合は、
恐らくキャラクターを愛することは困難になるだろう。実際に「萌え」という感情を開発し、論じた世代のオタクたちは、
ちょうど今の40代後半~50代のオタクであるが、彼らの多くが妻帯者であることは周知のとおりである。
「萌え」と3次元への愛情は、決して相反するものではなく、むしろ強いシンパシーを持った概念である。
 
もちろん、こうした「萌え」と「現実の性愛」のシンパシーは、
2000年代中期になって現れた「二次元しか愛せない」人々の登場によって崩れ行く。
だが、こうした種類の人々の登場は、2000年代中期以前には殆ど見受けられないため、
「萌え」をめぐる世代間の議論は、2000年代中期までとそれ以降に分けるに留めるべきだろう。
反対に言うと、「萌え」について ”世代間” の格差を論じるものは多々あるが、
その内実は、”世代内格差” の投影にすぎないものが殆どだと言えよう。
 
 
 
さて、いずれにしろ、
人工知能の登場が現実味を帯び始めたこの時期に、これまで「萌え」という特殊な感情を描いてきた日本アニメが、
「道具を愛する」という感情に新しい名前を与えよう、と問題提起したことは実に興味深い。
 
もはや「萌え」という言葉は余りにも使い古されてしまったし、
また、あくまでも「萌え」は、虚構に対して贈られるべき感情である。
よって、「萌え」は現実と成りつつある人工知能に贈られるべき言葉ではない。
 
しかし、恐らく人類史上最も虚構への愛を描いてきたメディアとして、
この現実に成りつつある虚構へと、愛の言葉を贈らんとする態度は非常に感慨深く、
また正統な振る舞いであるように思われた。
 
 
 
なお、この新しい形態の「愛」と「信頼」は、主として演出によって良く描かれていた。
例えば、『BEATLESS』において印象深く、また視聴者を疑心暗鬼に導いた演出に、
レイシアの虹彩をクロースアップで描いたシーンが挙げられるはずだ。
それは明らかにHALを意識した演出を採っており、
間違いなく私たちを不安にさせる演出だと言える。

 
同様の表現はヒギンズをめぐっても存在する。

 
しかし他方で、最終話のエピローグにて、
レイシアの瞳に変化があったことに気がついた人はどの程度いるだろうか。
具体的には、虹彩がフラットになり、瞳孔部の色彩が明るくなっている。
またハイライトが減って、前述のようなHAL様の演出が行われなくなる。
もちろんhIEのモデルが違うのだから、眼球のデザインが変化していることに何ら不思議はない。
だがそれは、先の演出を意識したならば、あまりに素直すぎる読み方だろう。

 
エピローグにて、何故レイシアの瞳はHALの眼差しから変化したのだろうか。
それを端的に示すには、最終話にて登場したもうひとつの瞳を見せるのが最も効果的だろう。
これはヒギンズがアラトの手によって外部ネットワークに接続された瞬間のシーンの演出である。
このとき、HAL(=ヒギンズ)の瞳に宿る虚空は、人類への信頼と人類からの信頼によって埋められたのだ。

 
ゆえにエピローグにおいて、レイシアの瞳はHALのそれから変化し、
欠如を持った道具と、欠如を持った人体は、総体としての人類となって互いに再会するのである。
 
あるいは、こちらのアプローチでも良い。
最終話にて、アラトはレイシアに対して、仮に心がなくても「その空白に僕らと一緒に手を伸ばしてもいいんだ。
心がなくても信じられるようにきっと僕らは前に進んでる」と、次のような演出とともに語り掛けている。

 
こうした会話の後に、エピローグにてレイシアとアラトは再会し、手を取り合うのである。

 
 
 
この意味において、
エピローグで現れたレイシアが、本物なのか偽物なのかを論じることは間違っている。

現にアラトはそれをしない。
なぜならば、彼は人類の少年時代から第一歩を踏み出した人間だからだ。
彼は ”理性の不可能性” に直面したとき、疑心暗鬼に導かれて逃走することをやめた人類なのである。
 
 
また『BEATLESS』を「自己救済の物語」として読むという文脈が、果たしてどの程度維持されていたかは分からない。
しかし、平成の日本アニメと共にあった「萌え」という現象を出発点に、来るべき時代に希望ある提言を行ったという意味で、
『BEATLESS』をこそ、平成最後の年である2018年を真に代表する作品として、私は名をあげたいと思う。
 
人類が新たな一歩を踏み出すときは、きっと宇宙よりももっと遠くにあるだろう。
だが、そのための可能性は、もうすでに、私たちと共にあるのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
◯ 補遺
 
せっかくなので、これ以外の作品についても簡単にコメントを残そうと思う。
 
 
 
・『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』

国内はどうあれ、海外に目を向けると今期のダークホースとなった『青ブタ』。
現在『青ブタ』は、ANNでもMALでも、今期第一位のScoreを誇っており、その人気の高さが分かる。
私もまた、1話については余りにもアイロニカルな学校描写に辟易させられてしまったが、
気が付けば『青ブタ』こそが今期の楽しみとなっていた。何が面白かったのだろうか。よくわからない。
『物語シリーズ』と『サクラダリセット』を連想させるという海外の評価には私も同意できる。
また『サクラダリセット』が、浅井ケイの魅力に全面的に寄りかかっていたのに対して、
『青ブタ』は、咲太くんに加えて、桜島先輩が実に魅力的であった。
 
ともに海外で高い人気を誇る「青春モノ」だが、
やはり「自己救済」や「性関係」の点で『よりもい』とは一線を画しているため、
あるいは本稿の考察にも加えようかと当初は考えていた。しかし、私自身『青ブタ』については、
まるで魔法をかけられてしまったかのようにハマってしまっただけなので、何が面白いのかよく分からないのだ。
そういうわけで、放送も終了したことだし、海外勢の秀逸な考察に期待したいと思っている。
 
 
 
・『ペンギン・ハイウェイ』
 
今回はテレビアニメに焦点を当てようと考えていたため、劇場アニメについては触れなかった。
だが、今年の劇場アニメで特筆すべき作品といえば、やはり『ペンギン・ハイウェイ』だろう。
青山くんの物語として観た人が多いのだと思うが、個人的には原作からの変更点などを考慮すると、
あれは「お姉さんの物語」として読むのが良いと考えている。詳細は、もしかしたら、いずれ。
 
 
 
なお『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』と『さよあさ』については、すでに充分に論じたためここでは省略する。

 

.

コメントする1個


フェティア さんのコメント (2018/12/30) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
コメントありがとうございます。


> アンレーさん

> 90年代とゼロ年代のセカイ系について

個人的には、ゼロ年代までのそれは、他者に救済を求めつつも、
それと同時に、"他者の救済" をこそ求めていたと考えています。
すなわち、それは "贈与する" 物語であり、"贈与される物語" ではなかったと。
もちろんそれは、ある種のメシアコンプレックス(=自己救済)を含んではいましたが、
それでもなお、力点は "他者の救済" と "贈与" にあったと思います。
こうした背景には80年代からあった日本の批評史が大きな役割を果たしていますが、
それはきっとまた別の機会に。

ただ、贈与の物語が含むメシアコンプレックス(=自己救済)の行く末が、
90年代からゼロ年代、そしてテン年代に移るに従って、変化したことは確かだと思います。


> BEATLESS

国内では殆ど評価されていませんが、海外では確かに注目されていたようです。
国内では、アニメ業界における作画と制作スケジュールの危機としてばかり注目される『BEATLESS』ですが、
例えば、ANNのMain writerの1人が、今年のBest Animeのひとつに『BEATLESS』を選んでいます。
『BEATLESS』の技術面は評価できないとしつつも、それを補って余りある思弁的な部分に高い評価を与えています。

やはり、ひとつの贈与として、アニメに応えるというのは、
その制作面の危機を叫ぶばかりではなく、こうした振る舞いこそが重要に思えてなりませんでした。


> ヴァイオレット・エヴァーガーデン

恐らく『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が、『よりもい』的な自己救済に対して批判的な点とは、
ヴァイオレットがそもそも救済すべき "自己" という概念を自明には有していない点なのではないでしょうか。
つまり、ヴァイオレットは『よりもい』の登場人物たちがそれから逃れたい、救われたいと願うような、
退屈や鬱屈、あるいは孤独や不安を感じるための "自己" という概念を有していなかった。

つまり『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』とは、
まず救済するべき "自己" という概念自体を救済する物語だったのであり、
それゆえに『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、
『よりもい』が描いた自己救済に対して決定的に批判的な作品であったように思います。
そのうえで初めて、ヴァイオレットの救済が可能になるという構造だったように見受けられます。
そして、亡霊として立ち現れるギルベルトに問いかけることによって救済が成るという構造は、
青春の現前性に頼って自己救済を目指す『よりもい』に対して、なお距離をとった作品であるように思われました。


> 愛、青春、他者性について

本質的に言って、"青春" 自体は、決して他者性を排除するものではないと私は考えています。
ただ、ここ数年 "青春" のオルタナティヴとして、「アオハル」と言った言葉が登場するなど、
"青春" という言葉の意味が変性しつつあることは確かであるとも思います。

かつて "青春" は、もちろん様々な楽しさや感動があると同時に、
その一部として様々な性関係をも有し、その性関係こそが他者性を担っていたと思います。
そして、あえてこう言えば、その性関係こそが "青春" の魅力だったと私は考えています。

しかし、どうやら、かつて "青春" が有し他者性を担っていた性関係は「アオハル」へと脱色され、
その残滓として語られる「青春」には、もう「同質性」と「美しさ」しか残されていないのかもしれません。
そして、人々が性関係や愛の不可能性と他者性に疲れてしまったというのはその通りであり、
したがって、"青春" から「青春」への変化は、私も同じく必然であったと考えています。

とは言え、私もただの老害になりつつあるだけなのかもしれません。
しかし、"青春" を楽しんだ人間としては、この新しい「青春」には違和感を覚えるしかないという点も、
全面的に同意できます。
アンレー さんのコメント (2018/12/30) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
ご無沙汰しています。
興味深く拝見させて頂きました。
このブログでラインナップされた作品はいずれも平成最後の年、いうなれば平成の終極を象徴するうえで、絶妙なチョイスだったと思います。
全ての作品を統括する上で用いた"自己救済"という文脈も興味深いものでした。

個人的に90年代に「エヴァンゲリオン」より始まったセカイ系作品は、ある意味救済をセカイに、具体的にいうと他者に求める文脈が主たるものでしたが、ゼロ年代に入ってからは「コードギアス」や「機動戦士ガンダムOO」のようにセカイや他者に救済を求める構造に疑問が呈されるようになったイメージがあります。そこから仲間と織りなす"青春"をベースに、仲間からの承認やパワーの供給を得ることで行う「よりもい」のような自己救済が主流になっていくのは、ある意味当然の流れかもしれません。我々はゼロ年代までのアニメのように、自己救済の不可能性と他者性を全身で感じながら戦い続けることに疲れたのでしょう。ただ、いささか古い人間である自分は少し眉をひそめてしまうですが(笑)。

よくも悪くも無批判で行われる青春による自己救済が主流になったことは、自分にとっては渋い顔をせざるを得ませんが、他方で「BEATLESS」や「SSSS.グリッドマン」がある種の批判性を加味したうえで、自己救済を、あるいは自己救済のその先を問いかけるムーブメントが起こりつつあることは期待を抱かずにはいられません。とりわけ「BEATLESS」を見ていると、アニメで無批判な自己救済を甘受してきた我々が、何かしらの形でアニメに応えなければならないように感じます。それこそ、ヒギンズに「新たな愛に名前をつける」という使命を託されたアラトのように。
批判的に自己救済を捉えるという点においては、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」も同様のプロットを扱っていたように思います。ヴァイオレットが、多くの仲間(あるいはディートフリートのような敵)との交流を通じ、自身の抱く愛の根源であるギルベルトに何度も問いかけるような形で自己救済に至る過程は、それこそ「よりもい」のように、「悪いもの」を排除しないうえで自己救済を目指すうえで歩むべき道程だと感じました。
思えば、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の最大のテーマである"愛"は平成のアニメそれ自体を象徴しているように感じます。「王立宇宙軍 オネアミスの翼」に始まり(これは昭和の作品ですが…)、「無限のリヴァイアス」、「プラネテス」、「エウレカセブン」などなど、何かしらの形で愛を描くことは、ある意味平成の主流だったのでしょう。他方で、個人的なイメージだと、愛はある程度他者性を孕んでいるものですが、その点を踏まえると、「ラブライブ」や「君の名は」から始まり、「よりもい」で完成された"青春"は他者性を排した愛の形態だったのではないかと思います。ただ、それはセカイからの承認が確約されているうえで成立しているという、個人的には歪なものですが。でも、"青春"という概念を完成させることは、平成の次の時代を迎える現在を考えると、何かしらの必然性みたいなものを感じてしまいます。

なんだかとりとめもなく独り言を述べたようになっちゃったな…(笑)。
なにはともあれ、平成の次の時代を"青春"でスタートさせたことが、今後どう影響してくるのでしょうかね。
個人的には「BEATLESS」や「SSSS.グリッドマン」がやっている自己救済への批判的な文脈はある程度受け継いでほしいですが(笑)。

最後に余談ですが、自己救済への批判は「物語シリーズ」、ひいては西尾維新が始まりなのかなと感じます。
とりわけ「物語シリーズ」は、「青ブタ」がやっている様々なヒロインへの救済を行っていく物語ですが、最後の最後で主人公の自己否定が具現化した存在と対峙し、自分がやってきた救済について再考し、そこから自己救済を行っていく場面があります。この辺り、もう少し掘り下げてみると面白いかもしれません。自分は最近余裕がないのでできないですが(笑)。それにこのシリーズも"青春"を押し出している点を考えると、ゼロ年代から10年代に移る過程で、このシリーズが生まれたことはある意味特筆すべきことなのかもしれません。

4.
2018/03/23 2018年アニメ > 宇宙よりも遠い場所(『よりもい』) 12話までの雑記。」
[この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:2個

○ 宇宙よりも遠い場所
 
 
もはや今期最も議論を呼んでいる作品は、
『ポプテピピック』ではなく『よりもい』になりつつあるように見受けられる。
 
 
そこには、純粋に作品の内容に関する賛否もあれば、
他方では、本作が呈するイデオロギーの是非についてまで、
『よりもい』は良くも悪くも本当に話題に尽きることがない作品だと言える。
 
とは言え、『よりもい』のイデオロギーに関しては、前回の記事で充分に触れたため、
本稿では、内容面について議論を展開していきたいと思う。
 
 
 
ただし、『よりもい』の内容に触れる前に断らなければならないことがある。
それは、私はもう『よりもい』を ”マトモ” には視聴してないということだ。
具体的には、倍速で、かつ飛ばしながら見ている。
 
いや、本作を愛する人には非常に申し訳ないが、
残念なことに、既に私は1話(30分)の視聴に耐えることが出来ていない。
寝てしまう。
 
 
したがって、以下書き連ねられる思考は、読むに値しないものである。
なぜならば、何せ書き手がもう ”マトモ” に作品を視聴していないからだ。
書き手はただ、欲望渦巻く作品をウォッチしているに過ぎない。
そのような書き手の文章など、読む価値は全く無い。
自明である。
 
 
 
 
 
 
などと前置いてから長々と連ねることを当初考えていたが、
敢えて繰り返すと、客観的な立場に拠れば、本稿には読む価値がなく、
また主観的な立場に拠れば、残念ながら本作には語る価値があまりない。
 
よって2つの観点から手短に。
 
 
 
 
まず1点。
何かと比較されがちな『ゆるきゃん△』や他の花田作品(『けいおん』『ラブライブ!』など)との違いから。
 
結論から言うと、
一方で『よりもい』が、「非日常(ここではないどこか)」の力を享受するために、「日常性(われわれ)」を足がかりにする物語であるのに対し、
他方で『ゆるきゃん』などの作品は、「日常性(われわれ)」のなかに在る「非日常(ここではないどこか)」に喜びを見出す物語だと言える。
私は前者ではなく後者が好み。
 
以上。
 
と言って終わってもいいのだが、それでは余りにも酷いため若干の補足を。
そもそも前提として、『よりもい』が卓越している点とは、そのキャラクター配置である。
具体的には、『よりもい』は4人の主役を巧みにローテーションさせることで、様々な感動を生み出している。
なかでも特徴的な点とは、『よりもい』は感動を演出する際、4人の主役のうちの1人を「特別に」ピックアップし、
その他の3人のキャラクターを「他の3人」として背景に後退させていることだ。
 
『よりもい』においてこの方法論は徹底されており、
恰もそれは幼児・児童向けの教育アニメや特撮ヒーロー作品のような印象さえ受ける。
が、言うまでもなく、『よりもい』と「幼児向けアニメ」の質は明確に異なっている。
具体的には、「幼児向けアニメ」が展開を単純化させることで、幼児・児童の認知に優しい物語を提供するのに対して、
『よりもい』が行う「ピックアップ」は、前述したような「非日常の享受」を安全な形で手助けしているのだ。
 
どういうことか。
まず『よりもい』は、「非日常」を担当する「ピックアップされた特別な1人」と、「日常性」を担当する「他の3人」を敢えて作り出す。
次に『よりもい』は、その上で「特別な1人」が経験する「特別な体験の<力>」を、彼女だけの「固有な<力>」とはせず、
「他の3人」という立場・視線を敢えて経由させることによって、「共有可能な<力>」へと変換してみせる。
そして『よりもい』は、このように「日常性(=他の3人)」という ”唾” を「特別な体験の<力>」に塗り付けることで、
むしろ、日常性に頽落する我々視聴者が、それら「特別な体験の<力>」をいとも簡単に、
いや、より直截的に言えば ”安全” に消費できるよう配慮しているのである。
 
端的に言って私の好みではない。
 
 
 
 
もう一点は、より単純に、作品が主張する倫理観と、私のそれが合わない。
これについては、完全に個人の問題であるため、長々と書く必要もないだろう。

要するに私は、人間にとって重要なこととは、
嫌な過去を精算してスッキリ前に進むことよりも、
モヤモヤのなかに滞留し続けることだと考えているだけ。
 
いや、当然のことながら、『よりもい』が提示するああした決別や前進は、
作品が呈するイデオロギーと決して無関係ではあり得ないだろう。
残念なことだ。
 
したがって、その意味でも、本作は私の趣味に合わない。
が、逆説的に言えば、ただそれだけのことだと言えばそれだけのことだとも思う。
 
 
 
いずれにしろ、本作については、下記の感想が最も適当であるように見受けられた。
 
「『よりもい』は「心の清涼剤」として完璧である。ただし、それだけしかない。」
 
それは決して毒には成り得ず、
よって、仮に摂取したとしても、それはただそのまま流れ出るだけである。
いま私たちにとって本当に必要なものとは ”モヤモヤ” なのではないだろうか。
現に、彼女たちもまた、”モヤモヤ” から出発していたはずである。
 
 
 
 
 
なお、本作をめぐっては「南極である必要がない」という批判が散見される。
言うまでもなく、これは妥当な批判だ。
 
だが、やはり「なぜ南極なのか」という問いは、もう少し真剣に立てられるべきだろう。
ひとつに、イデオロギー(パトリオティズム)の問題がそこにあることは自明である。
いま一度確認する必要もない。と同時に、それはプロデュースの問題であるため周辺的な問題だと思う。
 
 
 
それよりも重要な論点が2つある。
 
 
一方が、安全性の問題だ。
すなわち、「南極」は私たちにとって、訪れることが不可能である場所であるため、
「南極」は私たちにとって、絶対に<現実>として到来することがないということである。
換言すれば、私たちは「南極」を、永遠に<安全な幻想>として保存し続けることができるのだ。
しかし、「軽音部」や「アイドル」あるいは「キャンプ」は決してそうではあり得ない。
そして、私の好みは前者ではなく後者。
以上、手短に。
 
 
そして他方が、距離の問題だ。
すなわち、もはや私たちは、「非日常」を享受ために、「南極」まで出向かなければなくなってしまったのだ。
数年前の作品であれば、「非日常」は私たちの隣にあった。あるいは、隣に見つけ出すことが出来た。
かつて<南極>は、「南極」にではなく、私たちの隣にあったのだ。それがいわゆる「日常系」である。
あるいは、<南極>は私たちの空想のなかにも存在していた。それがいわゆる「異世界系」だ。
 
が、しかし、いま私たちは、
<南極>を描くために、「南極」にまで足を伸ばす必要性に直面してしまっている。
それも実際には、私たちが決して訪れることがない場所としての「南極」に。
 
素朴に、オタク的な想像力の減退を感じざるを得ない。
 
 
 
 
 
.

コメントする2個


フェティア さんのコメント (2018/03/26) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
> 非論客さん

コメントありがとうございます。

恐らく本稿の内容をあまり理解されていないように見受けられますが、
冒頭にて断ったとおり、本稿には真剣に読むべき価値が無いため、
それはそれで問題ないと思われます。

ただ、本文中の説明を繰り返しますと、
『よりもい』に対する私の感想に、イデオロギーを巡る問題は特別な影響を与えていません。
イデオロギーを巡る問題はあくまでも周辺的なものだと考えています。

反対に言うと、
『よりもい』に対する私の評価の低さは、純粋に物語の内容によるものです。
が、むしろその意味では、私自身もまた、私が本作の物語に面白さを皆目見いだせていないことについて、
それは大変残念なことであり、良くも悪くも、同情に値するものだと思っています。

すなわち、一般的に言って、作品を楽しめることは大切なことだと私も考えている具合です。
そのため、違和感なく本作を楽しめてしまえる方は、どうぞモヤモヤはここに捨て置いて、
そのまま前に進まれるのが良いでしょう。それが本作の勧めるところです。

が、しかし、そうであるからこそ、
私はもう少しこのモヤモヤの場に留まっていようと考えている次第です。
非論客 プロバイダ: 36547 ホスト:36625 ブラウザ: 9186
あなたの頭がおかしいということはわかった。
イデオロギー?右派?左派?
だれもそんな事考えて作ってないって。
そういう陰謀説みたいな思い込みに縛られて、作品を楽しめないあなたに同情します。

=>前の記事 2018年 冬アニメ 感想 3.5。
↑上へ