アンレーのブログ

総閲覧回数:30,247回 / 推薦評価:78個(内 論客43人) / ブログ拍手:68
 22日21日20日19日18日17日16日15日
閲覧7 (-2)9 (-1)10 (+9)1 (-2)3 (-9)1212 (+8)4
階位138139139139138138138138
ポイント452,652
(+4)
452,648
(+90)
452,558
(+80)
452,478452,478452,478452,478
(+18)
452,460
偏差値71.5671.5671.5771.5871.5871.5971.6071.61

最近閲覧されたログイン状態の論客
十傑集 / 古典主義 / 弥生一 / シャル / 消しゴム / Docty Junsai / rie-ru / オルタフォース / CHIGE / アマンドの木 / オグリキャップ / OYJAR40 / ミルナ- / ざくろ石 / ルミナ / 鳥沢文香 / フェティア / 伏魔の剣 / アスドフ / E・カリング / ねぎ麻雀 / アーマーひろっち / 667 / えぬ。える。えす / 小島かじり虫 / 将刃 / Mr.KN / sato / 人狼カイザー
アクセス記録[推移 / PV内訳(過去1日 / 過去1週間) / 外部アクセス元 (昨日 / 過去1週間) / ログイン論客足跡]
プロフィール私書
   /   /送済
評価(一覧   /)
投票   /共:   /
他己紹介
17/02/25
ブログ
[書く]
リンク集(無)
RSS購読
RSS
表示開始年月
 作成日時分類記事タイトル
12019/03/04 たぶらかし:BEATLESS
22019/02/25 たぶらかし:BANANA FISH..
32019/02/15 たぶらかし:PSYCHO-PASS サイコパス Si..
42019/02/13 書いた人本人専用メモ書き
52019/02/02 たぶらかし:PSYCHO-PASS サイコパス Si..
=>前の記事 たぶらかし:異世界系と盾の勇者
 反応日時来客名来客者の最近のメッセージ
12017/06/01OYJAR40こんにちは。初コメント失礼します。好き嫌いや作品の良し悪しに..
22013/10/17深淵者アンレーさん、何故ポケモンを!?因みに俺は弟が学校で買いに行..
32013/09/13ウクレレ3月のライオンは1巻を買ったんですけど、将棋好きのうちの父に..
42012/10/19名もなき詩人http://sakuhindb.com/pj/6_CCBE..
52012/10/19名もなき詩人分かりました。一応重視してますね。私が攻殻機動隊ばかりの話を..
その他最近のコメント
1.
2019/03/04 (2019/03/06更新) 「たぶらかし:BEATLESS」
[この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]

今更ながら一筆。
既に多くの方が色々語っているので、ちょっと別の観点からやってみる。

いわずもがな、『BEATLESS』は人間とモノの関係が主題の作品である。シンギュラリティを越え、モノが人間よりも高い知性を獲得したにも関わらず、依然「責任」を負わない人間が優位性を保つことで形成された歪な人間とモノの関係が続いている時代。そんな時代の中で、ある種の愛によって結びついたアラトとレイシアがラディカルな変革を巻き起こすのが本作の肝である。この作品の妙たるところは既に方々で語られているのでここでは触れないが、ラストにヒギンズが出した課題に関しては色々解釈が試みられているだろう。まさにアラトとレイシアの間に育まれた愛を示す、「神への崇拝でも同胞愛でもない新しい言葉」によって形容される新たな〈愛〉である。事実、アラトとレイシアの関係性は単純な恋愛(あるいは性愛)の域を超えている。また博愛というにはあまりに個人的な愛情だ。この〈愛〉についてはレイシアが「社会的に理解しがたい感情」と評しているように、一般的な価値観で安直に判断するのは難しいだろう。そのため色々議論する必要がある。

まず、本作におけるキーパーソン達の共通項から述べていく。ここでいうキーパーソン達は主人公であるアラト、そして彼と思わぬ形でぶつかることになる遼とケンゴである。この3人を「家族」というベクトルで見ると、ある共通項が浮かび上がる。
アラトは母親を喪っており、父親のコウゾウが単身赴任。普段は妹のユカと二人暮らしである。両親がいないとはいえ、アラトはコウゾウやユカとは良好な関係性を築いており、取り立てて問題は存在しない。無論、第17話でユカが吐露したように、一抹の寂しさは常に内在している。それでも、家族という関係性は維持されている。
これに対して遼の家庭は真逆の状態だ。母親の存在が描かれておらず、父親の剛は子供達と一緒に生活している描写はない。それどころか会話を交わしている描写もない。ある意味、アラトと同じように、遼は妹の紫織との二人暮らしをしている。しかし、遼と紫織の関係は決して良好ではない。遼は過去に吉野をはじめとするミームフレーム社の幹部連中に命を狙われ、アラトを巻き込んでしまった経験から、周囲の人間と距離を置き、前向きに生きる懸命さを捨てている。その変化は紫織との関わりにも影響している。そんな遼の変化を目の当たりにしている紫織も鬱屈を抱いており、またミームフレーム社の権力闘争に利用される自身の存在にも苦悩している。結局二人はそれぞれがメトーデのオーナーになったことで喧嘩別れしてしまい、紫織に至っては「今更兄妹面しないで」と痛烈な一言を放っている。剛との関係に関してはそこまでこじれている描写はないし、むしろ剛は最終話で遼をフォローしている。だが、剛はコウゾウのように信頼に根付いて放任主義を取っているわけではなく、遼の方も剛に何かを相談したり、頼ったりすることもない。破綻とまではいかずとも、アラトとは対照的に遼の家族は分裂に近しい状態であり、お互いをフォローし合える状態にはなっていないといえるだろう。
他方でケンゴは両親が健在であり、妹のオーリガと共に4人暮らしである。一見するとケンゴの家族は一般的なもののように見える。だが、ケンゴの両親は定食屋を営んでいることから不在が多く、常に仕事に追われている。何よりケンゴが語ったように、村主家は決して裕福ではなく、またhIEに奪われやすい職業についているため、将来的に安泰というわけではない。ケンゴが恐れているように、いつhIEに仕事が奪われるかわからない瀬戸際にいる。ケンゴがなかなかのひねくれ者になってしまったのは、常に前進する社会からいつ見捨てられてもおかしくない立場にあることが原因だろう。そしてそんな現状を憂うあまりケンゴは抗体ネットワークに所属してしまい、それがさらに家族との距離を引き離してしまっている。事実、ケンゴは両親はもちろん、オーリガに心を閉ざすようになっており、家族と距離を置いて自室に引きこもっていたり、一人で密かに行動している描写が多い。それもあってケンゴの家族は一般的な家族像に近くありつつも、決して和気藹々とした良好なものとはいえないだろう。
これらの点を踏まえると、本作におけるキーパーソン3人はいずれも家庭環境が健全とは言い難い。いずれも何らかの問題が顕在しているか、潜在しているといえる。何より片親だったり、両親が不在であるなど、常に何かが欠けているような状態だ。
しかし、それでもアラトがいる遠藤家は家族として十全に機能している。やや行き過ぎた放任主義ではあるが、アラト達はお互いを信頼しているし、フォローし合っている。これにはユカの指摘通り、アラトのパーソナリティーが大きく影響している。正確にはアラトとコウゾウが家族へ寄せる信頼が遠藤家を維持しているといえるだろう。

アラトと遼やケンゴの違いを挙げるなら、それは「信頼」であるといえる。この「信頼」は本作において最も重要な肝となるものだ。それが顕著に表れているのがアラトとレイシアの関係である。アラトはhIEという人の形をしたものによって触発される感情に素直に従うことができる人間であり、それがレイシアへの信頼のベースになっている。その信頼は素朴でありつつも、レイシアの在り方を守ることにもつながっている。無論、アラトはhIEだけでなく人間に対してもその信頼を寄せることができる。事実アラトは遼やケンゴと対立しつつも、親友としての彼らを見限るようなことはしなかったし、自身を振り回すユカに対しても、ちゃんと兄として愛情を注いでいる。アラトがレイシアを信頼することは、何もhIEだけに向けられた特別なものではない。むしろアラトは人間であろうとモノであろうと、同じだけの信頼を抱ける人物なのだ。
アラトがこのような無謬の信頼を寄せることができるようになったのは、個人的にコウゾウの存在が大きいと思う。コウゾウは放任主義を取りつつも、アラトやユカへの信頼が篤い。彼らの意思を尊重しつつ、必要があれば金銭面でバックアップする。一見するコウゾウの行いは甘やかしのようにも見えるが、コウゾウはアラトの命を決して守ろうとはしていない。アラトの社会的地位が危うくなっても、彼自身の命が危うくなっても、コウゾウは直接守ろうとはしない。あくまでコウゾウはアラトの命ではなく、在り方を守っているのだ。そしてコウゾウはhIE研究者であり、アラトほど素朴ではなくとも、hIEに一定以上の信頼を置いている。そんなコウゾウが父親だからこそ、アラトはこのような感情を持ち得たのだろう。
この点を踏まえると、アラトが人間でもhIEでも信頼を寄せられるというパーソナリティーは、決して彼個人が持つ特殊性ではなく、遠藤家という土壌があってこそ育まれたものである。そして育まれたパーソナリティーのままに、家族に対して信頼を寄せ続けているからこそ、アラトの家族はその機能を維持し続けていられる。

これを踏まえたうえで、アラトが寄せる信頼についてもう少し掘り下げる。
先述したように、アラトは他者の在り方を信頼する。これはコウゾウのように他者の意思に直接干渉したり、自身が望む方向に調整するものではない。むしろ相手が望んだ在り方を尊重する行為である。
これはアラトのレイシアへの信頼に対しても同様のことがいえるだろう。モノにおける在り方は形と行動に現れる。人間の形をとり、それに沿った行動をとることでモノはhIEという在り方となり、人より優れた演算能力を有する巨大なコンピューターの形をとり、それにそった行動をとることでモノは超高度AIという在り方となる。つまりアラトが人間の在り方を信頼することは、モノの形(つまりはモノの在り方)を信頼することとイコールなのである。まさに「たとえ魂がなくとも、その笑顔を僕は信じる」というわけである。
そして既に多くの方が指摘しているように、アラトの信頼は空白を埋め合わせるものでもある。本作で何度も言及されているように、レイシアをはじめモノには心がなく、常に空白を内在させている。それだけでなく、人間とモノの間にも信頼関係が断絶しているが故に生じる空白がある。だが、そこに信頼が入り込むことにより、その空白は埋まる。そして空白が埋まることで、レイシアは心を持つような在り方を獲得し、断絶された人間とモノが再び結びつき、総体としての人類の在り方が回復される。つまり信頼とは内在する空白を埋め合わせ、他者や特定の関係性の在り方を確立させるファクターだといえるだろう。
無論、この信頼は一方通行ではなく双方向的なものである。アラトがレイシアを信じると同時に、レイシアもまたアラトを信じているからこそ、これは成立する。そもそも双方向的な信頼が確立するのは、相手の意思それ自体に干渉したり、否定したりしないからだ。つまり在り方を信じていないわけである。『BEATLESS』における典型的な例を挙げるとしたら、第3話でレイシアを誘拐したストーカー男だろう。彼はある意味アラトに並ぶほどレイシアに愛情を向けていたが、それは彼自身が明言したように、自分が理想とする女性像の押し付けを行う一方的なものだ。同じ愛情の示し方でも、レイシアの意思、つまりは在り方を尊重するアラトとはこの点で大きく異なっている。

そしてこの信頼を先に述べた家族と合わせて語ってみる。個人的に信頼と家族を結びつける作品として浮かび上がるのは、細田守の『バケモノの子』だ。『バケモノの子』では九太が自身の生み出した闇に憑りつかれる描写があるが、その闇の象徴として現れるのは胸に空白を宿した九太自身である。九太は人間界で大学受験をしたいと願いつつも、それを認めない熊徹との対立や、実の父親との齟齬に苦悩する。あの九太が抱く空白は九太にも蓮にもなれず、自分自身を定められないがために在り方を見失ったがために発生したと解釈できるだろう。そしてその空白を埋めたのは、最終的に九太の在り方を信頼し、剣となって彼の内側に存在することを選んだ熊徹である。プロセスは違えど、信頼が空白を埋めるという点ではアラトのそれに近しいものがあるといえるだろう。
そして『バケモノの子』を引き合いに出す場合、注目すべきは擬似的とはいえ熊徹と九太が父子、つまり家族関係にあるという点である。そもそも『バケモノの子』は熊徹が父親に目覚める物語だ。その熊徹が九太の在り方を信頼し、九太の空白を埋め合わせたことにより、熊徹はようやく彼の父親、つまり家族になったのだといえる。
無論、家族がいるからこそ、あるいは家族がいなければ信頼が生まれないというわけではない。信頼は赤の他人にも向けられるものだし、そこから育まれるものである。
だが、そもそも家族は他人同士が一緒になることで始まるものである。そこには当然ながら一定以上の、それも双方向的な信頼があるだろう。つまり家族は血縁の有無に関わらず、当事者同士が信頼し合い、空白を埋め合っているからこそ生まれる結果だといえる。そしてそんな家族が機能不全を起こしてしまうのは、家族を成立させる前提である信頼が失われているからだ。だから遼やケンゴの家族は十全に機能していないわけである。

このように家族と信頼をベースに置くと、冒頭で書いたヒギンズの提示する〈愛〉のベクトルが見えてくる。
作中において、ヒギンズの提示する〈愛〉はアラトの信頼がレイシアの、そしてヒギンズ自身の空白を埋め合わせることによって完成される。つまり信頼が内在化することで〈愛〉は成立する。いいかえれば、「内在化した双方向的な信頼」が〈愛〉なのだろう。そしてヒギンズの提示した〈愛〉が成立した際の関係性は家族関係のそれに近しくなる。いうなれば〈愛〉は家族愛に近しいものだ。そもそもレイシアが呈示する人類の定義は「人体」、「道具」、「環境」の三要素が織りなす、三位一体的な解釈だった。人類という家を成立させるうえにおいて、人間とモノが家族的な関係性を形成することはある程度の親和性があるだろう。
無論、アラトとレイシアの関係性は「ボーイミーツガール」、つまり恋愛的な性愛だと捉えるべきではあるだろう。事実、『BEATLESS』はアラトがレイシアに恋をしたことが全ての始まりであり、物語の中核でもある。
ただ、恋はあくまで始まりに過ぎない。むしろ恋をし、そこから様々な経験を経て家族という結果に落ち着くことが重要だ。アラトとレイシアが、熊徹と九太がそうだったように、信頼は一定以上のコミュニケーションを経て、お互いの空白を認識したうえで、そこを信頼で埋め合わせていくというプロセスが必要となる。恋をするだけでは空白は埋まらない。それどころか、恋は一方通行の感情になってしまう恐れもある。
何よりレイシアが呈示する人類の定義を守るのであれば、モノへの〈愛〉は同じ構成要素である人間にも向けられて然るべきである。第14話で紅霞が言ったように、モノの背後には常に人間があり、モノに向けられる感情は人間へ向けられる感情と重なるからだ。そもそもアラト、遼、ケンゴといったキーパーソンの、彼らの家族との関係とモノへの価値観は重なる部分がある。アラトは家族を信頼しているからこそレイシアを信頼し、遼は家族と距離を取るからモノと距離を取ろうとし、ケンゴは本心を家族に呈示できるほど信頼していないからモノを信頼できない。
つまり、『BEATLESS』はモノへの信頼と〈愛〉が、同時に家族への信頼と愛を指し示すことを語る物語だといえるのでないだろうか。

コメントする(論客のみコメント可能記事)

2.
2019/02/25 (2019/03/06更新) 「たぶらかし:BANANA FISH」
[この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]

今更ながら全部観たので一筆。
ちなみに原作未読であり、アニメ版でのことしか記さないので悪しからず。

『BANANA FISH』は原作未読の自分でも一度は名前を聞いたことがある名作であり、言わずもがなアッシュと英二の間の美しい相思相愛を描いている。二人の関係性はボーイズラブとして捉えることも、友情物語として捉えることもできるだろう。ただ、個人的には性愛でも友愛でもなく、『BANANA FISH』で描かれる愛は「家族愛」であるという観点を呈示したい。

そもそも主人公であるアッシュの周囲の人間、正確には大人達(彼の表現を使うと「年寄り共」)はある種の父親的役割を担っている、あるいは担い得る人物が多い。
そのカテゴリーに該当するのは、兄であると同時に育ての親であるグリフィンは言わずもがな、半分冗談とはいえ「父さん」と呼んでいたマックス、戦闘術の師匠というまさに父親的役割を担っていたブランカ、そしてアッシュの宿敵として君臨し続けたディノが挙げられるだろう。
『BANANA FISH』が家族愛の物語だと解釈し得る糸口は、実はディノが提供しているように思う。ディノはアッシュに愛憎入り混じった感情で接していたが、興味深いことにアッシュを形容する際に二種類の表現を用いている。一つは「男娼」や「妻」に代表される、アッシュを性的欲望の捌け口として形容するような表現。そしてもう一つは「息子」である。思えばディノは当初「剥製にする」だの「男娼にする」だの言ってアッシュを迫害する一方、翡翠のピアスをプレゼントしてお気に入りの愛人のように飾り立てていたが、国立精神衛生センター以降はディノを徹底的に束縛しつつも彼を養子にし、仕事を手伝わせるなど後継者として、息子として扱っている。より顕著なのは第19話のディノの言動だろう。養子として望まない仕事をさせられたストレスで拒食症になったアッシュに罵られた際には「貞淑な妻」にしてやるといいながら、ラストではパーティーに連れてきた彼を「息子」と呼んでいる。つまりディノにとってアッシュは男娼から派生した性欲の捌け口としての「妻」という一面と、才能豊かな後継者としての「息子」の一面を持ち合わせていることがわかる。そしてディノは第19話以降からアッシュを息子として扱うことに終始しており、愛人のように飾り立てることを止めている。そしてあれだけ「殺してやる」と脅しておきながら、最終的にアッシュを殺さず、自ら炎の中に身を投げて死んでいく。残念ながらディノは心中を語られることが少ないため、その真意は推測するしかないが、彼の立ち回りを見る限り、最終的に男娼を買う権力者から、擬似的とはいえアッシュの父親として振舞おうとしていることが窺える。つまりアッシュとディノの対立は単なる男娼と権力者の対立から、息子と父親の対立、つまりある種の家族愛の拗れであるといえるだろう。

そして今作のヒロイン(笑)であり、第10話でアッシュが明確にグリフィンとダブらせており、冗談で「お兄ちゃん」と呼び、マックスやディノと同じ「年寄り共」にカテゴライズされている英二は、他のキャラクターと同様に家族愛の文脈で解釈できる余地がある。他方で、英二が家族におけるどの役割に該当するかは少し頭をひねるところだ。確かにアッシュとのやり取りやグリフィンとの投影を素朴に受け取るなら英二は擬似的な兄といえる。兄に虐げられたことで歪んだ月龍が、アッシュの擬似的な兄として機能する英二を嫌悪するという構図も面白い。
しかし個人的には英二もまたアッシュと同様に二面性があるように感じる。無論、当初英二はアッシュの前では擬似的な兄として振舞っており、アッシュもまたそれをある程度受け入れている。英二が何かにつけてアッシュより年上であることを意識するのはその証左だろう。ただ、物語後半の英二の立ち回りを見ていると、彼の存在意義はレイプされて不安定になったアッシュを抱きしめることにより、その傷を回復させることのように見える。そしてアッシュは英二を何が何でも自分の側に置こうとするようになる。アッシュがそこまで執着するのはある種の庇護欲が働いているのもあるが、最終的には英二が自分を回復させてくれることを求めているようにも見える。
これらの点に着目すると、英二はアッシュの擬似的な兄という一面と、擬似的な母という一面を持ち合わせているといえるのではないだろうか。無論英二は男性であり、そこまで女性的なキャラクターではないが、彼の行いは戦いに疲れ、傷ついた男を癒す典型的な女性像を踏襲しているように見える。今作が女性の好むボーイズラブのカテゴリーに入り得る作品であることを考慮すると、英二を母性的な存在として解釈する余地はあるだろう。何より今作では、とりわけ後半では英二が自らアッシュを抱きしめる描写が多い。その点を踏まえても、アッシュは英二を自分を抱きしめてくれる存在、つまり包容力を持った母親的な存在として無意識的に認識していたからこそ、あれだけ執着していたのではないだろうか。そもそもアッシュは生まれた直後に母親が駆け落ちしたために母性を受けた経験がなく、またグリフィンやブランカのような父親的な存在から愛情を受けている。つまりアッシュは父性を通じてしか愛情を受けた体験がない。だから彼が父性的な愛情の中で母性的な愛情を求めようとするのは無理からぬことかもしれない。

ただ、アッシュを取り巻く人間関係や英二との関係を家族愛の観点で見た場合、結局彼らは失敗していると解釈できてしまうだろう。
アッシュは英二を含めた様々な人物を擬似的な家族としての役割を与えたが、結局彼は誰かと暮らし、同じ世界で生きることはできなかった。暴力の世界で生き続けたアッシュ自身が同じ世界で生きることを拒んだからだ。それは家族愛が彼を充足させる要素として十分に機能し得なかったのが要因だろう。確かに英二はアッシュの傷を回復したし、マックスやブランカはアッシュの命を守った。だが、そもそもアッシュが生きる世界は不条理が支配する世界であり、生き馬の目を抜くような輩が騙し騙され殺し殺されを繰り返している。そのような世界において、本来家族愛は機能不全を起こすものだ。いや、正確にはブランカが語ったように家族愛への執着がそれこそ破滅の道に直結する。このメカニズムは恐らく今作のキャラクターの立ち回りのほとんどに影響している。英二に執着し続けたためにラオに刺されたアッシュは言わずもがな、シンへの愛情が暴走した結果アッシュと同士討ちになったラオも、アッシュを息子にしようと執心した結果フォックスに裏切られ自ら炎に飛び込んだディノも同じだといえるだろう。ベクトルは違えど、月龍も同様だ。月龍は王龍達に最愛の母を奪われたことによって復讐の鬼と化し、自身には得られなかった(正確には自ら捨て去った)愛情の象徴である英二をつけ狙った結果、ブランカやシンが離れて孤独になった。月龍は家族愛というより家族への憎しみに支配されたキャラクターだが、そのパーソナリティは家族愛への執着と渇望の裏返しといえるだろう。これらの点を踏まえると、今作は家族愛に執着する人々が家族愛の機能不全により、破滅の道を突き進む様を描いているといえる。

とはいえ、個人的にはこの作品における家族愛は失敗したと思わない。むしろ成功しているように思う。語弊がある表現を使うなら、むしろアッシュ達は破滅してよかった。
主観を多分に含むが、家族愛は破滅、正確には相手を「手離す」ことによって完結する。
これは細田守の作品に重なる部分がある。細田守は『おおかみこどもの雨と雪』、『バケモノの子』で親子が一緒に暮らし続けず、何かしらのタイミングで別離する結末を描いている。『バケモノの子』に関しては親に該当する熊徹が神となって九太の心の中にいるので、完全な別離とは言い難いが、あの立ち位置は『おおかみこども』で花の幻覚の中で登場するおおかみおとこに近いものがある。何より九太が実質的な父となっていた熊徹とではなく、長年交流がなかった実父との生活を選んだ以上、熊徹との別離を選んだと見なすべきだろう。
『おおかみこども』と『バケモノの子』では家族が共にいることの良さを描きつつ、むしろ共にい続けることの負の側面を描いていた。『おおかみこども』は雨がおおかみとしての在り方を選ぶことにより、人間としての在り方から乖離していく様が描かれるが、そんな雨の変化に花が抵抗感を示している描写があった。事実雨が独り立ちする直前、花は外を意識する雨に睨みをきかせている。母親である花の立場を鑑みれば、雨の変化に抵抗感を示すことは無理からぬことだ。結局雨は独り立ちし、花もそれを承認するが、その結末には視聴者の批判的な声も少なくなったと記憶している。家族が共にいるべきという価値観を持つ者であれば、花から離れる道を選んだ結末を否定的するのは当然だろう。『バケモノの子』においても、渋天街から出て人間界で生きる道を選ぼうとする九太に対して熊徹は明確に反対し、彼を止めている。
『おおかみこども』も『バケモノの子』も単純に子供が親の元から独り立ちすることを描いているが、それは同時に家族愛の二面性を描いていると解釈できる。家族は共に過ごすことで愛情を常に反復し続けるものだが、それは同時に家族を常に抑圧し続けることにもなる。『おおかみこども』で描かれた雨と雪の対立や、花の睨みはいずれも雨の抑圧に繋がり得るものだし、『バケモノの子』は熊徹からの猛烈な反対が九太に葛藤の要因になっている。『バケモノの子』における一朗彦はまさに家族愛がもたらす抑圧によって歪んでしまったと解釈できるだろう。一朗彦は猪王山達にバケモノであることを承認されることで自己同一性を保持していたが、それは結果的に一朗彦の人間性を抑圧することにつながった。そして抑圧した人間性が成長につれて露呈した結果、一朗彦は自己同一性が脅かされ、暴走したわけである。
細田守の作品が必ず家族の別離を描くことは、共に過ごすことによる抑圧から家族を脱却させることを意図しているのだろう。家族が共に過ごし続けるのは、むしろ家族の一員(往々にして子供)を抑圧し、家族全体が機能不全を起こした崩落するきっかけになりかねないことだ。もし雨が独り立ちしなかったら、九太が人間界に行かなかったら、恐らくそれぞれの家族はハッピーエンドを迎えなかっただろう。むしろ一郎彦のように致命的な暴走を起こし、あわや瓦解したかもしれない。
細田守作品における家族が共に過ごすことによる抑圧と、別離による抑圧からの脱却は『BANANA FISH』に重ねられる。その典型がアッシュと英二の関係だ。アッシュは英二と共に過ごすことを何より優先していたが、その影響は単純に英二を危険に晒すに留まらない。共に過ごすために英二は銃を手にし、挙句の果てに誰かを殺す覚悟を決め、結果失敗したものの一度実行に移している。これはアッシュの望んだ英二の姿ではなく、現にアッシュはブランカに諭され、英二を犯罪者にすることを避けようとするようになる。英二がアッシュと共に戦う覚悟を見せたことを成長と捉える人も多いだろうが、アッシュの立場からすれば、あれは純粋無垢で汚れを知らない英二を否定する行為であり、英二を守りたいという彼の意思に反する行為と捉えるべきだろう。そしてアッシュ自身も英二を守るあまり、ストリートギャングのリーダーという立場を逸脱した行いをするようになり、それがラオの離反を招く結果になる。さらに英二を守るためなら手段を選ばず、殺害すらしてみせるアッシュの行動は英二の望む彼の姿から逸脱していく。つまり、アッシュと英二は共に過ごせば過ごすほどお互いの理想からお互いを乖離させ、それぞれが望むお互いの在り方を抑圧し続ける結果になる。その行き着く先は当然二人の関係性の瓦解だろう。これは勝手な予想だが、仮にアッシュがラオに刺されず、英二がいる日本へ旅立つことができたとしても、二人はハッピーエンドになれなかったように思う。英二のような人間が生きる世界において、それこそアッシュは暴力の世界で生きてきた自分を抑圧せざるを得ないだろう。もちろん英二が傍にいることで、その抑圧は解決するかもしれないが、アッシュのこれまで重ねてきた罪が払拭されるわけではない。むしろ歪んだ抑圧を反復し続け、より致命的な傷を負うかもしれない。その点を踏まえると、最後の最後でアッシュが英二を、英二がアッシュを手離すと決断をしたのは最善の判断だろう。

アッシュと英二が互いに手離したことは切ない別れのように見えるが、むしろ二人の関係性を新たな次元にシフトさせたようにも感じる。英二の台詞にあった「僕の魂は君と共にある」という関係性だ。これは共に過ごしているが故に発生する抑圧の脱却の域を超えているように感じる。個人的にこれは『バケモノの子』における九太と一郎彦の関係の結末を連想させる。無論二人の関係性は家族愛というカテゴリーには入れ難いが、九太が楓からもらった栞が一郎彦に渡っている場面は、「僕の魂は君と共にある」をそれとなくつながる印象がある。そもそもあの栞は家族に起因する激しい自己の抑圧に苛まれていた楓が、自身の自己同一性を担保する象徴として身に付けていたものだが、同じように家族に起因する自己の抑圧に苛んでいた九太に渡されることにより、苦悩を共有する存在が自己に内在することを示す象徴になっている。つまり「僕の魂は君と共にある」というわけだ。そして九太はこの栞を自分と同じような苦悩を抱えていた一郎彦に与えることで、楓と同じような関係性を一郎彦と結んだといえる。
『バケモノの子』における栞の役割と「僕の魂は君と共にある」を結びつけるのであれば、それは自己を相手に内在化させていることを示しているのだろう。つまりお互いの存在かすでに内面にまで入り込んでおり、常にお互いの内側にお互いが存在し続けている状態だ。言い換えるなら、お互いがお互いにとっての普遍的な存在にまで昇華している。普遍的な存在となることは抑圧を脱却することにもつながるだろう。普遍性は同時に不変性を内包しているからだ。共に過ごし続けることは状況の変化や他者の介入に晒され続けることだが、普遍的な存在にまで昇華できれば、その影響に耐えられるだけの強度を持つ。
ただ、家族愛においてこの域に達するには、一度相手を手離さなければならない。先述したように、共に過ごし続けることはやがてお互いの抑圧に転じ得る。何より手離さなければお互いの存在が内在化していることに気づけない。目の前に相手がいる状態で、自身に内在する相手を見出すことはできない。だから一度手離すのだ。
ただ、悲しいかな『BANANA FISH』においてはアッシュと英二はお互いを手離そうと決心したものの、結局アッシュは英二の下へ行こうとしてしまった。つまり最終的にアッシュは英二を手離せず、ブランカのいう「孤独の埋め合わせ」をしようとしてしまったわけである。無論、ラオに刺されたのはその罰だというつもりはない。むしろラオに刺されたことにより、半ば強制的とはいえアッシュは英二を手離すことに成功している。アッシュが最後に穏やかな表情を見せていたのは、英二と出会えた想い出に浸っていることよりも、英二に「僕の魂は君と共にある」ことを気づかされたからだろう。つまりラオに刺されることで、アッシュは英二を手離し、自分に英二が内在していることを知り得たのである。

こういう書き方をすると「アッシュは死んで良かった」「アッシュは死んで幸せになった」みたいな暴論になるニュアンスで捉えられそうだが、あのアッシュの結末には肯定的に捉え得る余地があったという感じに捉えてもらいたい。
何はともあれ、『BANANA FISH』のような別離は決して悲劇と一辺倒に捉えられるべきではない。むしろ共に過ごすことの方が悲劇を招く恐れがある。共に過ごす中で、相手のためを想った言動は、自身の抑圧で、むしろお互いの関係を破綻させる引き金と紙一重だ。むしろ然るべきタイミングでいかに相手を手離すかが、お互いの関係をさらなる次元へシフトさせる。これは家族愛に限らず、愛と名付けられた全てのものに共通していることかもしれない。

コメントする(論客のみコメント可能記事)

3.
2019/02/15 「たぶらかし:PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.2 FIRST GUARDIAN」
[この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:1個

早速見てきたので一筆。
1時間の尺ながら内容は充実しているなぁ。正直『罪と罰』の方が密度は高い印象だが、『FIRST GUARDIAN』もなかなか。
以下、ネタバレが多数あるのであしからず。

個人的に今作で注目したのは執行官と軍人に配属される人材の差異。
『PSYCHO-PASS』の世界において、執行官は潜在犯が着任するシステムである。これには「犯罪者を追うなら犯罪者が適任」という考えに加え、犯罪の影響を受けて健常者の色相が悪化することを防ぐ意味も兼ねているのであろう。汚れ役を汚れている人間にさせることで、綺麗な人間を守るというわけだ。そして監視官が執行官を監督することによって、法規を遵守させ、その行為に法的な正当性をもたせることで監視官は社会的に承認される存在になっている。
これに対し、今回描かれた国防軍に所属する軍人は前線に立つパイロットや兵士の色相のケアが徹底されており、色相が悪化するようなことになれば大友燐や須郷のように前線から外される、あるいは国防省から退職することになる。
この設定は伊藤計劃の『虐殺器官』に近い。『虐殺器官』において、主人公のシェパードをはじめとした情報軍の面々(おそらく他の部隊に所属している軍人も)は作戦前にカウンセリングや薬物投与などを行い、徹底的にメンタルケアを図られたうえで戦場に投入される。この設定は恐らくPTSDなどのような精神疾患を予防し、同時に感情による「濁り」を防ぐことで作戦の支障を防ぐためのものだ。恐らく『PSYCHO-PASS』における国防軍の色相管理も『虐殺器官』に近い意図があるのだろう。執行官も軍人も国(あるいは社会)の指揮下にあり、殺人をするうえに、いずれもイリーガルな状況に叩き込まれるため色相が悪化しやすいリスクを抱えている点で共通している。しかしそれでも国防軍にある種の「清潔」を求めるのは、その職責の重さ故だろう。執行官と違い、軍人は国益を背負って戦うシチュエーションが多く、なおかつ状況に対して精密性が求められる。時には国を揺るがす政治的な判断を強いられる立場である以上、ある種の「清潔」は不可欠であるといえる。イリーガルな思想や反社会的要素は国家的戦略の障害になり得るからだ。端的に表現するなら「まともな仕事をするならまともな人間に」といったところだろう。ただ、『FIRST GUARDIAN』では2015年の劇場版『PSYCHO-PASS』のSEAUnのように、上江洲のような国防軍上層部の人間の犯罪係数が潜在犯並みの数値を持つという、とんでもない色相の悪化ぶりを露呈させていた。結局のところ上江洲のような人間は国防省のいう聖域の中で、超法規的な守護を受けていたことになる。これ自体はよくある悪役の体たらくであり、まだシビュラシステムの権力が行き届いていないことを如実に表す事象だといえるが、注目すべきは国防軍に蔓延っている「清潔」への信奉だろう。
上江洲が受けていた超法規的な守護を差し引くと、建前上は国防軍が「清潔」な人間で構成されている組織であることがわかる。なるほど、国益を守り、国を守る存在であるなら、それは「清潔」であって然るべきだ。たとえ欺瞞でも「清潔」であることを維持することは肝心だろう。
ただ、そうやって作り上げられた「清潔」な組織に、役職に正義は、信念はあるのか。それが『FIRST GUARDIAN』で投げかけられた問いだろう。

今作において理想的な正義や信念の体現者のように描かれているのか執行官の征陸である。ご存知とっつぁんこと征陸は昔ながらの刑事として優れた直観力や洞察力を持ち、法規の網をかいくぐって独自の行動をとりつつも、ちゃんと司法の一員として職務を全うしている人物だ。他方で上江洲に妻を暗に人質に取られることが示唆されると激昂し、自身が潜在犯であることを強調して脅すなど、ダーティーな一面も持ち合わせている。これらの点に注目すると征陸は「清潔」な人間ではなく、むしろ「濁り」を内在している人間だといえるだろう。
そもそも『PSYCHO-PASS』はシビュラシステムによって色相がクリアであること、つまり精神的な「清潔」が絶対視される社会において、「濁り」を内在している公安局の面々の視点から正義や信念を語る物語である。この点を踏まえると、今作は正義や信念を語り、体現し得るのは征陸のように「濁り」が必要なことを示唆しているように感じる。確かに精神が「清潔」であることは重要だが、フットスタンプ作戦の背景に省庁間の対立があり、また戦場で化学兵器が投入されたように政治や戦争は「清潔」なものではない。むしろいつだって「濁り」を孕んでいる。そもそも、あらゆる物事が「清潔」であることはなく、犯罪も政治も戦争も一様に「濁り」を孕んでいるものだ。そんな物事と向き合ううえで、「清潔」であることは逆にギャップを生み出し、耐えがたい齟齬の温床となるだろう。須郷が潜在犯落ちしたのも、シェパードがラストで独断行動に奔ったのも、全ては「清潔」であることを強いられた結果によるものだといえる。
この「濁り」は社会や組織との軋轢を生むリスクを孕みつつも、現実をありのままに受容するうえで不可欠なものだといえるだろう。その「濁り」を内在させることにより、「濁り」多き現実に対して作中の面々は現実に即した正義や信念を抱くことができるわけである。

他方で「濁り」は別の作用ももたらし得る。
そもそも『PSYCHO-PASS』において「清潔」であることは、ある種の権力を受け入れていること、つまり色相をクリアに保ち、「清潔」を保持することは権力を内在化させていることであり、精神それ自体をその権力に委ねている行為だといえる。この際に委託先として機能する権力で最も自明なのがシビュラシステムだが、作中において、この「清潔」を保持するための権力はシビュラシステムとは限らない。『罪と罰』の辻飼のようにサンクチュアリという行政特区の権力、上江洲のように国防省という権力、そして東金美佐子のように免罪体質者という権力でもいい。『PSYCHO-PASS』において清潔であることは、特定の権力に身を委ねている、あるいは囚われている行為なのである。
これに対し、「濁り」を帯びることはシビュラシステムなどの権力が跋扈する社会からはじき出されるリスクを帯びる代わりに、権力からの解放をもたらし得るだろう。「清潔」であることを失うことにより、作中の人物は「清潔」によって保持される権力の枠組みから外れ、初めて「濁り」多き現実に対面することになるというわけだ。そして「濁り」を内在させることにより、「清潔」な状態では抱き得なかった正義や信念を抱く温床ができるわけである。
やや安直に分けるのであれば、「清潔」=全体主義/「濁り」=個人主義みたいな構図ができるだろう。
第一期のラスボスである槙島が免罪体質者という権力の保持者でありながら、それに身を委ねずに一プレイヤーとして社会にアプローチをしていったのも(といっても主に犯罪だが)、「濁り」を手に入れることにより、「清潔」であることによって権力に囚われた自身の精神を現実へ解放しようとした意図があるという解釈ができる。
もちろん、「濁り」を孕み続けることは決していいことではない。狡噛のように「濁り」を抱き続ければ社会にはじき出されるし、普遍的な社会正義に反してしまう恐れがある。この点を見ると、「濁り」を孕むことは決して自由になることではなく、権力を拒み、我が道をいくアナーキストになることだといえるだろう。

権力に囚われる「清潔」か、個々の精神に根差し現実に則した正義や信念を抱き得る「濁り」か。『FIRST GUARDIAN』は『PSYCHO-PASS』がつきつける命題を改めて強調した作品のように感じた。

余談だが、先日亡くなった征陸のCVである有本欽隆の演技は素晴らしかった。「虎は死して皮を残す」というが、妻と会話する征陸のシーンは有本欽隆の真骨頂が現れているように感じた。これがもう見られないと思うと残念至極である。

コメントする(論客のみコメント可能記事)1個

4.
2019/02/13(下げ記事)
書いた本人専用メモ書き
5.
2019/02/02 「たぶらかし:PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰」
[この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:1個

『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰』、長いので以下『罪と罰』を見てきたので、ツラツラと。
色々立てこんでいたのが終わったので気楽に書けることはいいことです。
後、ネタバレを多分に含んでいるのでご了承を。

『罪と罰』は尺が1時間だったので、内容もそれなりにまとまったものにはなっていたが、なかなかの密度でした。
舞台となった独立行政区のサンクチュアリは「洗脳」、「管理社会」、「社会に阻害された人々の扱い」など、『PSYCHO-PASS』の世界観ならおおよそ連想できる要素を固めたようなものであり、それ自体はあまり驚きの域はでない。
ただ、驚いたのは霜月の立ち回り。既知の通り、第2期と最初の劇場版でなかなかの嫌われ役となった霜月だが、今回は妙に真っ直ぐで、正義感に燃える純朴な刑事のような振る舞いを見せている。おまけに、ラストでは事件の元凶だったシビュラシステムの一員を「報いを受けなさい」といって引っ叩いてもいる。正直、今までの霜月のイメージを踏まえるとかなり驚きだ。鑑賞中「いつこんなキャラになった?」と首をかしげっぱなしだった。

そもそも霜月のキャラクターは常守と正反対の属性を持っている。常守が普遍的な社会正義を尊重し、司法と倫理を重視する「善き市民」であるとしたら、霜月は社会システムや権力そのものを重視し、従属することを望む「良き市民」だといえよう。いうなれば常守が自律性と自立性を兼ね備え、時に社会と衝突する覚悟を以て行動するスタンスであるのに対し、霜月はシステムや権力の庇護を受けることを望み、それを否定する者を許さないスタンスである、
別段『罪と罰』で霜月は根本的にそのスタンスを覆したわけではないが、彼女のスタンスをシビュラシステムの一員である烏間を「引っ叩く」という行為に結びつけることはなかなかできないだろう。

ただ、『PSYCHO-PASS』の第二期、劇場版の結末を踏まえると霜月の変化にはある種の必然性が在るように感じる。
まず、第二期でシビュラシステムは「全能者のパラドクス」を突かれることで、これまで持っていた全能性を一部覆された。シビュラシステムに自浄作用が生み出されたことにより、これまで免罪体質という不可侵領域を創り上げてきたシビュラシステムの絶対性が崩れたのだ。もちろん賢いシビュラシステムは、自浄作用をあえて取り入れることでシステムとしての完全性を維持しようと試みたが、それは同時にシビュラシステム自身が裁かれ得るというリスクを内包することになっている。結局、シビュラシステムは不完全性を露呈させてしまったことにより、少なくとも公安局内部での権威は否が応でも下がってしまったのだ。もちろん従順な霜月はそれでもシビュラシステムに付き従うが、この段階でシビュラシステムが「間違え得る存在」になってしまった事実は否定できるものではない。
そして劇場版でのシビュラシステムは相変わらず好き勝手にやってはいるものの、常守に説教された結果、シャンバラフロートでチュアン・ハン(もちろん中身はシビュラシステムの一員)政権を再建する際に、民主主義に則った選挙を行うことになった。この選挙自体はチュアン・ハン当選ありきの出来レースだが、特筆すべきは出来レースとはいえ、シャンバラフロートの住民が真実を知らないとはいえ、シビュラシステムに権力を委託するかどうかを決定する主導権を民衆が握ったことである。つまり、作中の日本では社会システムの根幹であると同時に、絶対的権力者であるシビュラシステムが一時的とはいえ、民衆に「使ってくれるかどうか」を判断される立場に格下げされたと捉えられよう。

これらの二点を踏まえると、相対的に霜月がシビュラシステムを引っ叩ける立場に格上げされるのも自然だ。そもそも霜月はシビュラシステムの権威にひれ伏すことを重視していた。だが往々にして権威と実体は完璧に結びつくことはない。権力者の権威ばかりが格上げされて、その実体が伴っていない例はいくらでもある。だから、権威を下回る実体が発覚すれば、自然と関係性は逆転していく。
『罪と罰』のプロットはある意味それを如実に示している。辻飼はサンクチュアリにおける権力者として君臨していたが、その実体を露呈されたことにより、皮肉にも自分に従うようにプログラミングしていた潜在犯達にはじき出されてしまう。そしてこれはまさに権威と実体のギャップによって、権力者が転落するという構図になっている。権力者が転落するような事態が生まれれば、従順な「良き市民」である霜月に引っ叩かれるようなラストが描かれるわけである。この点は霜月が烏間を引っ叩いた台詞である「完全なシステムに綻びを作った」にも現れている。よくよく考えると台詞は奇妙だ。それこそ烏丸は霜月がいう「完全なシステムの一部」であるにも関わらず、その烏丸がシステムの綻びを作っている。端的にいうなら「システムがシステムの綻びを作った」という状況だ。無論、第二期の言説を引っ張るなら、ここでも全能者のパラドクス的なものが発覚していると捉えられるが、ここでの表現に倣うなら権威と実体のギャップが発生したとみるべきだろう。つまり『罪と罰』の段階で、少なくとも霜月の中で「社会システムという権威」であるシビュラシステムと、「烏間という実体」としてのシビュラシステムの間に乖離が発生していることを示唆しているといえよう。

そもそも『PSYCHO-PASS』が目指す結末は第一期のラストで常守が言った「いずれシビュラシステムの電源を誰かが落とす」である。残念ながらディストピアを描くSFとして良くも悪くも作り込まれている今作において、その結末への道程はなかなか果てしないものだ。だが、おそらく第二期以降のスタンスから窺うに、制作陣はシビュラシステムの権威と実体のギャップを突破口にしていくのだろう。

個人的にこの構図は漫画版の『風の谷のナウシカ』を感じる。『風の谷のナウシカ』は腐海やそこで生きる人間達が旧世界の人間達によって作られた存在であり、世界の浄化や旧世界の人間が円滑な復活を実現するためのシステムや奴隷だった。そして旧世界の人間は自分達の壮大な計画を完了させるために、墓所から王を選定し、旧世界の技術や知識を提供することでシステムや奴隷を操作していた。だが、墓所に入ったナウシカによって実体を露呈した旧世界の人間、つまり墓所の主は、見事に全否定されてボコボコにされた挙句、皮肉にも自分達が生み出したナウシカや巨神兵によって抹殺されてしまう。
『風の谷のナウシカ』のこの結末は、少しばかり自然賛美に依り過ぎているため、鵜呑みにするのは難しい。だが、権力者たる墓所の主がここまでボコボコにされるのはそれなりに得心がいく。
無論、墓所の主が自分達の復活のためにナウシカ達のような腐海に対応した人間を生み出し、奴隷扱いしているのを見れば誰だってお冠にはなるだろうが、それ以前に墓所の主はナウシカ達が生きている世界から離れすぎていたことも原因だといえるだろう。例えば墓所の主がどれだけ凄まじい技術や知識を持っていようが、彼らは作中の世界でナウシカ達と生きているわけではない。墓所の主はその名の通り墓所の中に引きこもるだけであり、一部の人間にしか謁見させていない。そのため、墓所という存在すら知らない者すらいる。そして、そんな墓所の主の権威は彼らが提供する巨神兵やヒドラなどといった旧世界の技術や知識に依存している。
これは奇妙な構図を生み出すことになる。確かにナウシカ達は旧世界に対するある種の畏れ(あるいは恐れ)を抱いてはいたが、それはあくまで彼らの権威の触媒である旧世界の技術や知識を目の当たりにしているからであり、墓所の主それ自体を目の当たりにしているからではない。つまりナウシカ達の視点でみるなら、旧世界の技術や知識の方に権威があるわけであり、権力者である墓所の主には権威がない。ものすごく安直に表現するなら、権力者としての墓所の主が「偉そうなことばっかいっているよくわからん奴」になってしまっている。
この構図の要因は、墓所の主がナウシカ達と同じ世界を生きていないからだといえるだろう。そもそも汚れた世界を拒んで墓所の中に閉じこもった連中が、汚れた世界に生きるナウシカ達の主導権を握り続けることは難しい。いくら旧世界の技術や知識を提供しても、運用するのがナウシカ達である以上、墓所の主がいくらふんぞり返った所で、結局技術や知識を使えるナウシカ達が主導権を握ることができるからだ。そもそも一緒に汚れた世界で生きる気もない奴が仕切っている状況なんて、理由はどうあれ受け入られるものではない。いくら権威で飾ろうとも、墓所の主の実体が墓所に引きこもっているよくわからない肉の塊である以上、その在り方自体が権威と実体のギャップを生み出しているからだ。

この『風の谷のナウシカ』で『PSYCHO-PASS』を見ると、少し面白い。
『罪と罰』の辻飼の行動は、第二期に登場した鹿矛囲に似ている。両者とも潜在犯、あるいは色相が濁った人間の色相をクリアにし、回復させることによって権威を得ている。だが鹿矛囲は最後まで信奉者が付いてきてくれたのに対し、辻飼は信奉者全員から拒絶されたという結末を迎えている。
もちろん、辻飼が権力欲に塗れたどうしようもない子悪党だったことも起因しているが、辻飼と鹿矛囲が行った色相をクリアにするプロセスの違いを見ると、先述した『風の谷のナウシカ』の話と重なってくる。
辻飼が用いた色相をクリアにしたプロセスはカウンセラーやセラピストによるカウンセリングや薬物投与を駆使しつつ、潜在犯達を集団思考状態にすることだった。だが、このシステムは霜月が指摘したように、辻飼が直接行っているわけではなく、あくまで配下の人間がやっているに過ぎない。おまけに辻飼はあくまで司令塔に過ぎず、システム自体は辻飼抜きでも完結してしまっている。そもそも辻飼の権威はその地位という触媒に依拠しているものであり、システムそのものに依拠しているわけではない。霜月が言うようにシステムという神輿にただ乗っかっているだけなのである。つまり権威に対して実体が伴っていない。だから辻飼自身もシステムにはじき出されるわけである。この点は墓所の主と共通しているといえるだろう。
これに対し、鹿矛囲は自らが直接薬物投与やセラピーを行うことにより、シビュラシステムに依存しない形で色相をクリアにしている。このプロセスは実行者である鹿矛囲を抜きにしては成立しない。おまけに鹿矛囲は常に信奉者と行動し、彼らと同じ世界で生きている。それを目の当たりにしているからこそ、信奉者もより忠誠心を高めていく。つまり鹿矛囲は常に権威と実体が合致している状態を作り出している。若干突拍子のない繋げ方をするのであれば、鹿矛囲の在り方はそれこそナウシカだといってもいい。ナウシカのように汚れた世界で生き、汚れた世界の中で権威を示すからこそ、権威と実体が伴った権力者でいられるのだ。

そして『風の谷のナウシカ』と『PSYCHO-PASS』を結びつけるなら、墓所の主に相当するのはシビュラシステムだろう。
シビュラシステムの実体は免罪体質というイレギュラーの脳みその集積体である。その実体を守る為に、シビュラシステムは自らをノナタワーの地下に引きこもり、色相という触媒を通じて権威を発揮している。正体を隠し、触媒に依拠している段階でやっていることは墓所の主と変わらない。つまり民衆と同じ世界に生きていない。そして民衆が見ているのはシビュラシステムの実体ではなく、その権威の触媒である色相の方だ。彼らからしたら脳みそではなく、色相がシビュラシステムであり、権威はそこにある。
実際、鹿矛囲があえてシビュラシステムに向けて「WC?」と質したように、シビュラシステムと、シビュラシステム自身が生み出した権威の触媒である色相の間にはすでに乖離が発生している。本来ならば権威があるべきなのは脳みその方なのに、触媒に過ぎない色相の方に権威がいっている。なぜなら民衆と同じ世界にあるのは触媒の方がだからだ。だから乖離が生まれ、最終的にその色相の方にシビュラシステムが照合され、裁かれるという事態になる。つまりシビュラシステムが民衆を裁き、権威の触媒したものが権力を発揮することによって、生み出した権化が裁かれているという、なかなか皮肉な構図になっているというわけだ。
この構図は霜月が烏間を引っ叩いたシーンにも現れている。烏間の行為は「システムという権威をシステムの実体が汚した」という事態に該当する。だからシビュラシステムの一員であろうが、烏間は殴られるわけである。つまりこの時点で、シビュラシステムは霜月のような「良き市民」が抱く理想としてのシステムより格下の存在にまで成り下がっているのである。

そう考えると『罪と罰』は『PSYCHO-PASS』が行くべき結末に至る道程の進展を見せていると感じる。
すでにシビュラシステムは、従属を明言した霜月にすら引っ叩かれる程度のものになっており、順調に権力者の地位から下りつつある。これをこのまま繰り返していけば、やがて本当にシビュラシステムの電源を切る時が来るかもしれない。
ただ、シビュラシステムというシステムそれ自体は作中の社会システムとして圧倒的な実績を残しており、すでに社会それ自体が依存している。だから、実際は人間がシビュラシステムに対して主導権を取り返すくらいのレベルで終わるかもしれない。
ただ、システムに従属するばかりの「良き市民」が従属するあまり、システムそれ自体を上回る立場になり、結果的に「善き市民」としての行いをしていたという『罪と罰』の構図は個人的には面白い。
霜月は常守と違って真摯に社会正義と向き合っているわけではなく、どちらかという権威に付き従うタイプだ。だが、今回は権威の理想化と社会正義への信頼が幸運にも重なった。重なったからこそ霜月は夜坂や武弥を助け、辻飼を裁き、烏間を引っ叩くことができたわけである。とりわけ烏間を引っ叩き、シビュラシステムを叱った行為は、シビュラシステムとぶつかり合っている常守をどこか連想させる。瞬間的とはいえ、「良き市民」が「善き市民」になり変わったわけだ。
昨今のアニメでは民衆を愚鈍な大衆、あるいは敵として否定的に描くことが多い。だが、『罪と罰』で描かれた、大衆の代表たる霜月の立ち回りは、ある意味愚鈍だからこそ見出せる純朴さであり、同時にそれが権威と実体が伴っていない権力者を打破するきっかけとなるという、なかなか痛快な転倒をやってくれているといえるのではないだろうか。

コメントする(論客のみコメント可能記事)1個

=>前の記事 たぶらかし:異世界系と盾の勇者
↑上へ