アンレーのブログ

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1.
2019/02/15 「たぶらかし:PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.2 FIRST GUARDIAN」
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早速見てきたので一筆。
1時間の尺ながら内容は充実しているなぁ。正直『罪と罰』の方が密度は高い印象だが、『FIRST GUARDIAN』もなかなか。
以下、ネタバレが多数あるのであしからず。

個人的に今作で注目したのは執行官と軍人に配属される人材の差異。
『PSYCHO-PASS』の世界において、執行官は潜在犯が着任するシステムである。これには「犯罪者を追うなら犯罪者が適任」という考えに加え、犯罪の影響を受けて健常者の色相が悪化することを防ぐ意味も兼ねているのであろう。汚れ役を汚れている人間にさせることで、綺麗な人間を守るというわけだ。そして監視官が執行官を監督することによって、法規を遵守させ、その行為に法的な正当性をもたせることで監視官は社会的に承認される存在になっている。
これに対し、今回描かれた国防軍に所属する軍人は前線に立つパイロットや兵士の色相のケアが徹底されており、色相が悪化するようなことになれば大友燐や須郷のように前線から外される、あるいは国防省から退職することになる。
この設定は伊藤計劃の『虐殺器官』に近い。『虐殺器官』において、主人公のシェパードをはじめとした情報軍の面々(おそらく他の部隊に所属している軍人も)は作戦前にカウンセリングや薬物投与などを行い、徹底的にメンタルケアを図られたうえで戦場に投入される。この設定は恐らくPTSDなどのような精神疾患を予防し、同時に感情による「濁り」を防ぐことで作戦の支障を防ぐためのものだ。恐らく『PSYCHO-PASS』における国防軍の色相管理も『虐殺器官』に近い意図があるのだろう。執行官も軍人も国(あるいは社会)の指揮下にあり、殺人をするうえに、いずれもイリーガルな状況に叩き込まれるため色相が悪化しやすいリスクを抱えている点で共通している。しかしそれでも国防軍にある種の「清潔」を求めるのは、その職責の重さ故だろう。執行官と違い、軍人は国益を背負って戦うシチュエーションが多く、なおかつ状況に対して精密性が求められる。時には国を揺るがす政治的な判断を強いられる立場である以上、ある種の「清潔」は不可欠であるといえる。イリーガルな思想や反社会的要素は国家的戦略の障害になり得るからだ。端的に表現するなら「まともな仕事をするならまともな人間に」といったところだろう。ただ、『FIRST GUARDIAN』では2015年の劇場版『PSYCHO-PASS』のSEAUnのように、上江洲のような国防軍上層部の人間の犯罪係数が潜在犯並みの数値を持つという、とんでもない色相の悪化ぶりを露呈させていた。結局のところ上江洲のような人間は国防省のいう聖域の中で、超法規的な守護を受けていたことになる。これ自体はよくある悪役の体たらくであり、まだシビュラシステムの権力が行き届いていないことを如実に表す事象だといえるが、注目すべきは国防軍に蔓延っている「清潔」への信奉だろう。
上江洲が受けていた超法規的な守護を差し引くと、建前上は国防軍が「清潔」な人間で構成されている組織であることがわかる。なるほど、国益を守り、国を守る存在であるなら、それは「清潔」であって然るべきだ。たとえ欺瞞でも「清潔」であることを維持することは肝心だろう。
ただ、そうやって作り上げられた「清潔」な組織に、役職に正義は、信念はあるのか。それが『FIRST GUARDIAN』で投げかけられた問いだろう。

今作において理想的な正義や信念の体現者のように描かれているのか執行官の征陸である。ご存知とっつぁんこと征陸は昔ながらの刑事として優れた直観力や洞察力を持ち、法規の網をかいくぐって独自の行動をとりつつも、ちゃんと司法の一員として職務を全うしている人物だ。他方で上江洲に妻を暗に人質に取られることが示唆されると激昂し、自身が潜在犯であることを強調して脅すなど、ダーティーな一面も持ち合わせている。これらの点に注目すると征陸は「清潔」な人間ではなく、むしろ「濁り」を内在している人間だといえるだろう。
そもそも『PSYCHO-PASS』はシビュラシステムによって色相がクリアであること、つまり精神的な「清潔」が絶対視される社会において、「濁り」を内在している公安局の面々の視点から正義や信念を語る物語である。この点を踏まえると、今作は正義や信念を語り、体現し得るのは征陸のように「濁り」が必要なことを示唆しているように感じる。確かに精神が「清潔」であることは重要だが、フットスタンプ作戦の背景に省庁間の対立があり、また戦場で化学兵器が投入されたように政治や戦争は「清潔」なものではない。むしろいつだって「濁り」を孕んでいる。そもそも、あらゆる物事が「清潔」であることはなく、犯罪も政治も戦争も一様に「濁り」を孕んでいるものだ。そんな物事と向き合ううえで、「清潔」であることは逆にギャップを生み出し、耐えがたい齟齬の温床となるだろう。須郷が潜在犯落ちしたのも、シェパードがラストで独断行動に奔ったのも、全ては「清潔」であることを強いられた結果によるものだといえる。
この「濁り」は社会や組織との軋轢を生むリスクを孕みつつも、現実をありのままに受容するうえで不可欠なものだといえるだろう。その「濁り」を内在させることにより、「濁り」多き現実に対して作中の面々は現実に即した正義や信念を抱くことができるわけである。

他方で「濁り」は別の作用ももたらし得る。
そもそも『PSYCHO-PASS』において「清潔」であることは、ある種の権力を受け入れていること、つまり色相をクリアに保ち、「清潔」を保持することは権力を内在化させていることであり、精神それ自体をその権力に委ねている行為だといえる。この際に委託先として機能する権力で最も自明なのがシビュラシステムだが、作中において、この「清潔」を保持するための権力はシビュラシステムとは限らない。『罪と罰』の辻飼のようにサンクチュアリという行政特区の権力、上江洲のように国防省という権力、そして東金美佐子のように免罪体質者という権力でもいい。『PSYCHO-PASS』において清潔であることは、特定の権力に身を委ねている、あるいは囚われている行為なのである。
これに対し、「濁り」を帯びることはシビュラシステムなどの権力が跋扈する社会からはじき出されるリスクを帯びる代わりに、権力からの解放をもたらし得るだろう。「清潔」であることを失うことにより、作中の人物は「清潔」によって保持される権力の枠組みから外れ、初めて「濁り」多き現実に対面することになるというわけだ。そして「濁り」を内在させることにより、「清潔」な状態では抱き得なかった正義や信念を抱く温床ができるわけである。
やや安直に分けるのであれば、「清潔」=全体主義/「濁り」=個人主義みたいな構図ができるだろう。
第一期のラスボスである槙島が免罪体質者という権力の保持者でありながら、それに身を委ねずに一プレイヤーとして社会にアプローチをしていったのも(といっても主に犯罪だが)、「濁り」を手に入れることにより、「清潔」であることによって権力に囚われた自身の精神を現実へ解放しようとした意図があるという解釈ができる。
もちろん、「濁り」を孕み続けることは決していいことではない。狡噛のように「濁り」を抱き続ければ社会にはじき出されるし、普遍的な社会正義に反してしまう恐れがある。この点を見ると、「濁り」を孕むことは決して自由になることではなく、権力を拒み、我が道をいくアナーキストになることだといえるだろう。

権力に囚われる「清潔」か、個々の精神に根差し現実に則した正義や信念を抱き得る「濁り」か。『FIRST GUARDIAN』は『PSYCHO-PASS』がつきつける命題を改めて強調した作品のように感じた。

余談だが、先日亡くなった征陸のCVである有本欽隆の演技は素晴らしかった。「虎は死して皮を残す」というが、妻と会話する征陸のシーンは有本欽隆の真骨頂が現れているように感じた。これがもう見られないと思うと残念至極である。

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2.
2019/02/13(下げ記事)
書いた本人専用メモ書き
3.
2019/02/02 「たぶらかし:PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰」
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『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰』、長いので以下『罪と罰』を見てきたので、ツラツラと。
色々立てこんでいたのが終わったので気楽に書けることはいいことです。
後、ネタバレを多分に含んでいるのでご了承を。

『罪と罰』は尺が1時間だったので、内容もそれなりにまとまったものにはなっていたが、なかなかの密度でした。
舞台となった独立行政区のサンクチュアリは「洗脳」、「管理社会」、「社会に阻害された人々の扱い」など、『PSYCHO-PASS』の世界観ならおおよそ連想できる要素を固めたようなものであり、それ自体はあまり驚きの域はでない。
ただ、驚いたのは霜月の立ち回り。既知の通り、第2期と最初の劇場版でなかなかの嫌われ役となった霜月だが、今回は妙に真っ直ぐで、正義感に燃える純朴な刑事のような振る舞いを見せている。おまけに、ラストでは事件の元凶だったシビュラシステムの一員を「報いを受けなさい」といって引っ叩いてもいる。正直、今までの霜月のイメージを踏まえるとかなり驚きだ。鑑賞中「いつこんなキャラになった?」と首をかしげっぱなしだった。

そもそも霜月のキャラクターは常守と正反対の属性を持っている。常守が普遍的な社会正義を尊重し、司法と倫理を重視する「善き市民」であるとしたら、霜月は社会システムや権力そのものを重視し、従属することを望む「良き市民」だといえよう。いうなれば常守が自律性と自立性を兼ね備え、時に社会と衝突する覚悟を以て行動するスタンスであるのに対し、霜月はシステムや権力の庇護を受けることを望み、それを否定する者を許さないスタンスである、
別段『罪と罰』で霜月は根本的にそのスタンスを覆したわけではないが、彼女のスタンスをシビュラシステムの一員である烏間を「引っ叩く」という行為に結びつけることはなかなかできないだろう。

ただ、『PSYCHO-PASS』の第二期、劇場版の結末を踏まえると霜月の変化にはある種の必然性が在るように感じる。
まず、第二期でシビュラシステムは「全能者のパラドクス」を突かれることで、これまで持っていた全能性を一部覆された。シビュラシステムに自浄作用が生み出されたことにより、これまで免罪体質という不可侵領域を創り上げてきたシビュラシステムの絶対性が崩れたのだ。もちろん賢いシビュラシステムは、自浄作用をあえて取り入れることでシステムとしての完全性を維持しようと試みたが、それは同時にシビュラシステム自身が裁かれ得るというリスクを内包することになっている。結局、シビュラシステムは不完全性を露呈させてしまったことにより、少なくとも公安局内部での権威は否が応でも下がってしまったのだ。もちろん従順な霜月はそれでもシビュラシステムに付き従うが、この段階でシビュラシステムが「間違え得る存在」になってしまった事実は否定できるものではない。
そして劇場版でのシビュラシステムは相変わらず好き勝手にやってはいるものの、常守に説教された結果、シャンバラフロートでチュアン・ハン(もちろん中身はシビュラシステムの一員)政権を再建する際に、民主主義に則った選挙を行うことになった。この選挙自体はチュアン・ハン当選ありきの出来レースだが、特筆すべきは出来レースとはいえ、シャンバラフロートの住民が真実を知らないとはいえ、シビュラシステムに権力を委託するかどうかを決定する主導権を民衆が握ったことである。つまり、作中の日本では社会システムの根幹であると同時に、絶対的権力者であるシビュラシステムが一時的とはいえ、民衆に「使ってくれるかどうか」を判断される立場に格下げされたと捉えられよう。

これらの二点を踏まえると、相対的に霜月がシビュラシステムを引っ叩ける立場に格上げされるのも自然だ。そもそも霜月はシビュラシステムの権威にひれ伏すことを重視していた。だが往々にして権威と実体は完璧に結びつくことはない。権力者の権威ばかりが格上げされて、その実体が伴っていない例はいくらでもある。だから、権威を下回る実体が発覚すれば、自然と関係性は逆転していく。
『罪と罰』のプロットはある意味それを如実に示している。辻飼はサンクチュアリにおける権力者として君臨していたが、その実体を露呈されたことにより、皮肉にも自分に従うようにプログラミングしていた潜在犯達にはじき出されてしまう。そしてこれはまさに権威と実体のギャップによって、権力者が転落するという構図になっている。権力者が転落するような事態が生まれれば、従順な「良き市民」である霜月に引っ叩かれるようなラストが描かれるわけである。この点は霜月が烏間を引っ叩いた台詞である「完全なシステムに綻びを作った」にも現れている。よくよく考えると台詞は奇妙だ。それこそ烏丸は霜月がいう「完全なシステムの一部」であるにも関わらず、その烏丸がシステムの綻びを作っている。端的にいうなら「システムがシステムの綻びを作った」という状況だ。無論、第二期の言説を引っ張るなら、ここでも全能者のパラドクス的なものが発覚していると捉えられるが、ここでの表現に倣うなら権威と実体のギャップが発生したとみるべきだろう。つまり『罪と罰』の段階で、少なくとも霜月の中で「社会システムという権威」であるシビュラシステムと、「烏間という実体」としてのシビュラシステムの間に乖離が発生していることを示唆しているといえよう。

そもそも『PSYCHO-PASS』が目指す結末は第一期のラストで常守が言った「いずれシビュラシステムの電源を誰かが落とす」である。残念ながらディストピアを描くSFとして良くも悪くも作り込まれている今作において、その結末への道程はなかなか果てしないものだ。だが、おそらく第二期以降のスタンスから窺うに、制作陣はシビュラシステムの権威と実体のギャップを突破口にしていくのだろう。

個人的にこの構図は漫画版の『風の谷のナウシカ』を感じる。『風の谷のナウシカ』は腐海やそこで生きる人間達が旧世界の人間達によって作られた存在であり、世界の浄化や旧世界の人間が円滑な復活を実現するためのシステムや奴隷だった。そして旧世界の人間は自分達の壮大な計画を完了させるために、墓所から王を選定し、旧世界の技術や知識を提供することでシステムや奴隷を操作していた。だが、墓所に入ったナウシカによって実体を露呈した旧世界の人間、つまり墓所の主は、見事に全否定されてボコボコにされた挙句、皮肉にも自分達が生み出したナウシカや巨神兵によって抹殺されてしまう。
『風の谷のナウシカ』のこの結末は、少しばかり自然賛美に依り過ぎているため、鵜呑みにするのは難しい。だが、権力者たる墓所の主がここまでボコボコにされるのはそれなりに得心がいく。
無論、墓所の主が自分達の復活のためにナウシカ達のような腐海に対応した人間を生み出し、奴隷扱いしているのを見れば誰だってお冠にはなるだろうが、それ以前に墓所の主はナウシカ達が生きている世界から離れすぎていたことも原因だといえるだろう。例えば墓所の主がどれだけ凄まじい技術や知識を持っていようが、彼らは作中の世界でナウシカ達と生きているわけではない。墓所の主はその名の通り墓所の中に引きこもるだけであり、一部の人間にしか謁見させていない。そのため、墓所という存在すら知らない者すらいる。そして、そんな墓所の主の権威は彼らが提供する巨神兵やヒドラなどといった旧世界の技術や知識に依存している。
これは奇妙な構図を生み出すことになる。確かにナウシカ達は旧世界に対するある種の畏れ(あるいは恐れ)を抱いてはいたが、それはあくまで彼らの権威の触媒である旧世界の技術や知識を目の当たりにしているからであり、墓所の主それ自体を目の当たりにしているからではない。つまりナウシカ達の視点でみるなら、旧世界の技術や知識の方に権威があるわけであり、権力者である墓所の主には権威がない。ものすごく安直に表現するなら、権力者としての墓所の主が「偉そうなことばっかいっているよくわからん奴」になってしまっている。
この構図の要因は、墓所の主がナウシカ達と同じ世界を生きていないからだといえるだろう。そもそも汚れた世界を拒んで墓所の中に閉じこもった連中が、汚れた世界に生きるナウシカ達の主導権を握り続けることは難しい。いくら旧世界の技術や知識を提供しても、運用するのがナウシカ達である以上、墓所の主がいくらふんぞり返った所で、結局技術や知識を使えるナウシカ達が主導権を握ることができるからだ。そもそも一緒に汚れた世界で生きる気もない奴が仕切っている状況なんて、理由はどうあれ受け入られるものではない。いくら権威で飾ろうとも、墓所の主の実体が墓所に引きこもっているよくわからない肉の塊である以上、その在り方自体が権威と実体のギャップを生み出しているからだ。

この『風の谷のナウシカ』で『PSYCHO-PASS』を見ると、少し面白い。
『罪と罰』の辻飼の行動は、第二期に登場した鹿矛囲に似ている。両者とも潜在犯、あるいは色相が濁った人間の色相をクリアにし、回復させることによって権威を得ている。だが鹿矛囲は最後まで信奉者が付いてきてくれたのに対し、辻飼は信奉者全員から拒絶されたという結末を迎えている。
もちろん、辻飼が権力欲に塗れたどうしようもない子悪党だったことも起因しているが、辻飼と鹿矛囲が行った色相をクリアにするプロセスの違いを見ると、先述した『風の谷のナウシカ』の話と重なってくる。
辻飼が用いた色相をクリアにしたプロセスはカウンセラーやセラピストによるカウンセリングや薬物投与を駆使しつつ、潜在犯達を集団思考状態にすることだった。だが、このシステムは霜月が指摘したように、辻飼が直接行っているわけではなく、あくまで配下の人間がやっているに過ぎない。おまけに辻飼はあくまで司令塔に過ぎず、システム自体は辻飼抜きでも完結してしまっている。そもそも辻飼の権威はその地位という触媒に依拠しているものであり、システムそのものに依拠しているわけではない。霜月が言うようにシステムという神輿にただ乗っかっているだけなのである。つまり権威に対して実体が伴っていない。だから辻飼自身もシステムにはじき出されるわけである。この点は墓所の主と共通しているといえるだろう。
これに対し、鹿矛囲は自らが直接薬物投与やセラピーを行うことにより、シビュラシステムに依存しない形で色相をクリアにしている。このプロセスは実行者である鹿矛囲を抜きにしては成立しない。おまけに鹿矛囲は常に信奉者と行動し、彼らと同じ世界で生きている。それを目の当たりにしているからこそ、信奉者もより忠誠心を高めていく。つまり鹿矛囲は常に権威と実体が合致している状態を作り出している。若干突拍子のない繋げ方をするのであれば、鹿矛囲の在り方はそれこそナウシカだといってもいい。ナウシカのように汚れた世界で生き、汚れた世界の中で権威を示すからこそ、権威と実体が伴った権力者でいられるのだ。

そして『風の谷のナウシカ』と『PSYCHO-PASS』を結びつけるなら、墓所の主に相当するのはシビュラシステムだろう。
シビュラシステムの実体は免罪体質というイレギュラーの脳みその集積体である。その実体を守る為に、シビュラシステムは自らをノナタワーの地下に引きこもり、色相という触媒を通じて権威を発揮している。正体を隠し、触媒に依拠している段階でやっていることは墓所の主と変わらない。つまり民衆と同じ世界に生きていない。そして民衆が見ているのはシビュラシステムの実体ではなく、その権威の触媒である色相の方だ。彼らからしたら脳みそではなく、色相がシビュラシステムであり、権威はそこにある。
実際、鹿矛囲があえてシビュラシステムに向けて「WC?」と質したように、シビュラシステムと、シビュラシステム自身が生み出した権威の触媒である色相の間にはすでに乖離が発生している。本来ならば権威があるべきなのは脳みその方なのに、触媒に過ぎない色相の方に権威がいっている。なぜなら民衆と同じ世界にあるのは触媒の方がだからだ。だから乖離が生まれ、最終的にその色相の方にシビュラシステムが照合され、裁かれるという事態になる。つまりシビュラシステムが民衆を裁き、権威の触媒したものが権力を発揮することによって、生み出した権化が裁かれているという、なかなか皮肉な構図になっているというわけだ。
この構図は霜月が烏間を引っ叩いたシーンにも現れている。烏間の行為は「システムという権威をシステムの実体が汚した」という事態に該当する。だからシビュラシステムの一員であろうが、烏間は殴られるわけである。つまりこの時点で、シビュラシステムは霜月のような「良き市民」が抱く理想としてのシステムより格下の存在にまで成り下がっているのである。

そう考えると『罪と罰』は『PSYCHO-PASS』が行くべき結末に至る道程の進展を見せていると感じる。
すでにシビュラシステムは、従属を明言した霜月にすら引っ叩かれる程度のものになっており、順調に権力者の地位から下りつつある。これをこのまま繰り返していけば、やがて本当にシビュラシステムの電源を切る時が来るかもしれない。
ただ、シビュラシステムというシステムそれ自体は作中の社会システムとして圧倒的な実績を残しており、すでに社会それ自体が依存している。だから、実際は人間がシビュラシステムに対して主導権を取り返すくらいのレベルで終わるかもしれない。
ただ、システムに従属するばかりの「良き市民」が従属するあまり、システムそれ自体を上回る立場になり、結果的に「善き市民」としての行いをしていたという『罪と罰』の構図は個人的には面白い。
霜月は常守と違って真摯に社会正義と向き合っているわけではなく、どちらかという権威に付き従うタイプだ。だが、今回は権威の理想化と社会正義への信頼が幸運にも重なった。重なったからこそ霜月は夜坂や武弥を助け、辻飼を裁き、烏間を引っ叩くことができたわけである。とりわけ烏間を引っ叩き、シビュラシステムを叱った行為は、シビュラシステムとぶつかり合っている常守をどこか連想させる。瞬間的とはいえ、「良き市民」が「善き市民」になり変わったわけだ。
昨今のアニメでは民衆を愚鈍な大衆、あるいは敵として否定的に描くことが多い。だが、『罪と罰』で描かれた、大衆の代表たる霜月の立ち回りは、ある意味愚鈍だからこそ見出せる純朴さであり、同時にそれが権威と実体が伴っていない権力者を打破するきっかけとなるという、なかなか痛快な転倒をやってくれているといえるのではないだろうか。

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4.
2019/01/25 (2019/01/31更新) 「たぶらかし:異世界系と盾の勇者」
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やっと色々落ち着いたと思ったらそうでもない状況だが、ひとまず空いた時間に書いてみる。
基本的にアニメは最終回を見てから書くのだが、今回はふと思い立ったので一筆。
主題は『盾の勇者の成り上がり』。
ちなみに原作は未読。

『盾の勇者』はご多聞に漏れず異世界系の作品だ。20歳のオタクが突如異世界と転生されてすったもんだを繰り広げるという点は、ほかの同系統の作品と大差はない。ただ、これを見ていると異世界系について色々考えることがでてきたので、色々書いてみたいと思う。

ひとまずこの3点から見てみよう。

①主人公の優位性の有無

異世界系の主人公は往々にして異世界に住む人間が持たない、ある種の優位性を有している。
『異世界はスマートフォンとともに』におけるスマートフォン、『GATE』における自衛隊、『転生したらスライムだった件』におけるチート的なスキルなどが好例だろう。俗にいう「俺つえー系」だ。
また、優位性は特定の技術やスキルといった能力だけでなく、主人公のパーソナリティにも現れることもある。『幼女戦記』における主人公の徹底した合理性など、『ナイツ&マジック』における主人公の突拍子のない発想など、その世界にはない価値観、思想もまた優位性につながるだろう。
そもそも異世界系は後述するように虚構性が強く、徹頭徹尾虚構性を保持することが求められる。そして虚構が虚構であるためには、主人公を超越してはならない。虚構は主人公が優位性を持ち、異世界に対して有力であるからこそ成立する。もし主人公を超越してしまうと、異世界は虚構の体を壊し、ある種の現実として立ち現れてくる。こうなってしまうと異世界系は成立しない。異世界系はある種の「安心安全」が保障されているからこそ、成立できるジャンルだといえるからだ。

『盾の勇者』を見てみると、一見ナオフミはこの優位性を有していない。むしろ「盾の勇者」という歓迎されないジョブを与えられ、防御特化で攻撃がロクにできないというなかなかの不遇ぶりである。おまけに女に騙され、それが原因で一気に嫌われ者になるという泣きっ面に蜂状態。まぁそのルサンチマンをバネにのし上がっていくというシナリオが『盾の勇者』の特色なのだろう。
この点は『灰と幻想のグリムガル』に似ている。これは異世界系でありながら、ゴブリン一つ倒すのに苦労する主人公の「劣位性」を強調することで、異世界の虚構感を排斥している。『盾の勇者』はこのレベルほどではないにせよ、劣位性を強調することで主人公の優位性を排斥しているという点では共通しているといえよう。優位性を排除することにより、異世界系につきものの虚構感を不成立にさせているのである。

この点を踏まえると、『盾の勇者』が異世界系でありながら、異世界系の定石早速外れようとしていることがわかる。
だが、落ちこぼれが成り上がる系統の話はありふれているものだし、『盾の勇者』が用いている劣位性はさして珍しいものではない。

優位性を示すジョブの現れ方にも触れておきたい。異世界系において優位性を示すジョブといえば「勇者」や「冒険者」などといった「正義の味方」に類し得るジョブが挙げられる。他方で、「オーバーロード」や「異世界魔法と奴隷魔術」のように「魔王」といった、悪役の形でジョブを得るケースもある。
まぁ結局「俺つえー」で無双するという結末には変わりないが、「正義の味方」を選ぶか「悪役」を選ぶの違いは不可視的な部分にあると思う。前者は「正義の味方」である以上、正義に倣わなければならず、その行いには正当性と責任が求められ得るだろう。だが、後者のような立ち位置だと状況は変わる。魔王であれば悪役である以上、正義に倣う必要はない。欲望のままに動いても問題はない。おまけに正義に倣っても「あれ?こいつ意外といい奴じゃん」と評価が上がるきっかけになる。つまり、正義の味方と比べて悪役の方が制約が弱い。
これは後述する虚構性が強い異世界を楽しむうえで重要なポイントとなる。正当性や責任という概念は常に我々を現実の前に立たせるが、それが除かれたジョブではそれらを考える必要性が薄まる。もちろん、往々にして異世界系の主人公は善人であるため、なんやかんやで正当性や責任を考えることもあるだろうが、それを差し引いても、一定の自由度の高さはあらかじめ保障されているわけである。

この点からみると、『盾の勇者』はルサンチマンマックスで、若干ピカレスクロマンが入ってはいるものの、主人公は勇者というジョブについている。ナオフミの振る舞いはどちらかというとアンチヒーローのようなものだが、第3話の振る舞いはそれこそ勇者といってもいいだろう。むしろモンスターを倒すことに集中して襲われている村に興味を示さない残り3人の勇者と対比することで、ナオフミの勇者性を際立たせている。
ナオフミの行動原理はどちらかというと負けん気が強いが、正当性と責任に直面し得るスタンスを維持し、異世界を満喫するような享楽ぶりを見せていない点では、彼は虚構に耽溺はしていないのだろう。むしろ残り3人の勇者の振る舞いと対比することで、ナオフミが勇者として正当であることを示しているのかもしれない。

②虚構性が強い異世界か

さきほども触れた、虚構性が強い異世界という観点で見てみよう。
異世界系は往々にして描かれる異世界の虚構性が強い。どの異世界系もゲームで描かれるような王道のファンタジーの世界観であり、作品によってはシステムもそのまま持ち込んでいる。むしろ、異世界系で描かれる異世界はゲームの延長線上のようなものだといってもいいだろう。『幼女戦記』や『灰と幻想のグリムガル』のようにリアリティを強調している事例はあるものの、基本的に描かれる異世界はデータベース的なものであり、既視感のある要素で構成したものである。
前に『デスマーチから始まる異世界狂想曲』で書いたが、基本的に異世界系における異世界はアトラクションに近い。もちろん、アトラクションの領域から逸脱した出来事を描いている作品もあるし、『ソードアートオンライン』のように虚構性を逆手に取って異世界(正確には仮想空間)を描いている秀作もある。だが、先述したように、基本的に異世界系は「安心安全」を保障させているからこそ成立する。ただ、それが主人公の優位性に担保されているか、それとも異世界そのものに担保されているかは作品に依るし、安心安全を敢えて逸脱する作品もあるため、一部例外があることは言い訳しておく。

『盾の勇者』の場合、何のひねりもなくそのままゲーム的なシステムを持ち込んでいるため、虚構性が強く、既視感まみれの異世界だといえよう。ただ、作中の異世界は決して安心安全ではない。ナオフミ達が召喚されたメルロマルクは女性優位の風潮があり(ただ国の描写を見る限りどの辺が女性優位なのかはよくわからない)、加えて亜人差別が根強く、奴隷売買もあるなどダーティーな一面がある。
これらの要素は作中の異世界にある種の現実性を持たせているといえるだろう。余談だが、女性優位の風潮によってナオフミが堕落し、奴隷の少女を仲間にして成り上がりを図るという構図はそこはかとなく「MGTOW」っぽさを感じさせる。

また、暴力描写においてもそれが窺える。モンスターを殺害した際の血しぶきや、初めてモンスターを殺したラフタリアの描写はある種のリアリティを醸し出しており、ゲーム的ではない。この生々しい暴力描写は『灰と幻想のグリムガル』に近いだろう。「『オーバーロード』もそうじゃないか」という声もありそうだが、あれは主人公が同じレベルの暴力描写に受けることがない。ナオフミやラフタリアがダメージを受けながら必死に戦うように、暴力が双方向的ではない。『オーバーロード』のような暴力描写はリアリティで語るよりも、スプラッター映画を見るような感覚の延長という印象である。

しかし、このレベルのダーティーさを描いていることは異世界系の作品では珍しくないため、『盾の勇者』の特色とするにはいささか性急だろう。
ただ、真に『盾の勇者』の特色とすべきは、『盾の勇者』ではナオフミ以外の勇者3人がパラレルワールドの日本から来たという点である。つまりナオフミの主観で見れば、他の勇者はパラレルワールドという異世界から別の異世界に来た存在であり、「虚構の人間が虚構に来た」というなんともややこしい構図を成立させている。
これをどう解釈するかは今後の描写次第であるため、今の段階で何かしらの結論を出すことは難しい。ただ、さきほどの勇者同士の対比を踏まえると、作中には、常に異なる展開を持つ異世界系的な虚構が並立して存在しているように見える。ナオフミが身を置く「落ちこぼれの成り上がり系」の虚構に対し、モトヤスが身を置いているハーレムを築く典型的な「異世界系」の虚構があるような具合に。つまり、ナオフミは既存の異世界系的な虚構を常に目の当たりにし、それと対立し続けるという構図になっている。
そして、もしナオフミが身を置くハードな虚構を「現実」とするのなら、ナオフミは他の勇者が身を置く虚構と常に対立し、苦しめられるという構図が浮かび上がってくる。
この点は、脱異世界系というより、アンチ異世界系的なニュアンスの方が強いかもしれない。もしナオフミが他の勇者が描き出す異世界系的な虚構に対し、批判的な立場を取るであれば、それは異世界系を「現実逃避」といって非難する異世界系嫌いのスタンスにそのまま重なるからである。
もしかしたら、この作品は既存の、様々な異世界系を批判しつつ、新たな異世界系を構築しようという意図があるのかもしれない。

③ハーレム、あるいは仲間を作るか

往々にして異世界系はハーレム、あるいは仲間を作っていくものである。むしろハーレムを作ることはもはやセットになっているといってもいいだろう。そしてご多分に漏れず、そのハーレムや仲間は主人公のことを愛している、あるいは心から敬服している。
そもそも異世界系は異世界の虚構性が強く、また主人公に優位性が与えられているが、それらを成立させるうえで周囲からの承認は必要不可欠である。周囲から承認されているからこそ、主人公は異世界系で自由に振る舞えるし、虚構性が強い異世界を満喫できるからだ。
この点で見ると、ナオフミはラフタリアや、鍛冶屋といった仲間を手に入れてはいるが、基本的に異世界系としてのスタートダッシュには失敗している。
一方で同じ勇者のモトヤスは順調にハーレムを築き上げている。この辺りの対比は印象的だが、モトヤスのパーソナリティを考えると、やはり否定的なニュアンスが生じることは否めない。
そもそも『盾の勇者』は一時間の第一話をまるまるナオフミの没落に割いている。ハーレムや仲間を作るきっかけになる「出会い」はラストにちょこっと書かれるだけだ。この点を見ると、『盾の勇者』は落ちぶれてからの成り上がりに重点を置いている可能性が高い。
ただ、OPを見る限り、いずれナオフミもハーレムを築きそうな感じがするので、安直なハーレム批判にはならないだろう。ただ、モトヤスが構築するハーレムとナオフミが構築するハーレムにどのような違いがあるのか、この点はいずれ描かれることには期待したい。

他方で、異世界系におけるハーレム、あるいは仲間を作る過程で注目すべき点は「プロセスが簡素」という点である。
基本的に異世界系は、ヒロインがあっという間に主人公に惚れるか、様々な人間が主人公の優位性に敬服するか、あるいは『オーバーロード』のように初めから主人公の仲間として据えられているといったパターンが多い。多少のコミュニケーションはとるものの、そのプロセスはいたってストレスフリーである。そもそも異世界系は主人公が優位性を有しているうえに、異世界の住人は知識や思考の進度が一段階遅れているように描かれることが多い。未来人と過去の人間、先進国と未開の地の関係のように、異世界系は主人公を優位な立場におき、異世界の人間を相対的に劣位な立場におくことにより、主人公に取り込まれやすい構図を作っているわけだ。
そして、その構図を最も如実に示すのが「奴隷」だろう。『異世界魔王』や『デスマーチ』が顕著だが、奴隷はハーレム、あるいは仲間という関係性をいち早く形成し、なおかつ、その関係性に拘束する作用がある。無論、そのハーレム、あるいは仲間がきちんと内実を伴っているかは主人公の自助努力によるが、関係性の形を作るうえで奴隷は最もストレスフリーな要素だといえるだろう。
このようにストレスフリーな、簡素なプロセスでハーレムや仲間を作ることができるのも、異世界系において重要な要素だといえるだろう。異世界の虚構性を強いまま保持するには、主人公の優位性を保持するにはストレスは大敵である。ストレスは虚構を楽しむ余裕を奪い、優位性を脅かし得るからである。

『盾の勇者』も例外ではなく、一人目の仲間を奴隷という形で「購入」している。ただ、重篤なトラウマを抱えるラフタリアは無条件でナオフミに懐くようなことはなく、それなりのコミュニケーションを経て仲間となっている。これを見る限り、『盾の勇者』は簡単に相手が惚れるような安易な手段は選ばないのだろう。ただ、ナオフミの成り上がりが承認を得ていくプロセスを伴うのであれば、今後どのような形でハーレムや仲間を形成していくかは注目すべき点だろう。

ただ、余談になるが、個人的に奴隷を安易に利用する傾向は好きじゃない。ポリコレをやかましくいうわけではないが、奴隷という関係性には結束と言うより、前述した拘束というニュアンスが強い。また、主従関係も必然的に発生するため、そこには権力が作用する。つまり、奴隷は主人が権力を以て拘束することによって生まれる関係性だ。しかし、自分が個人的に連想するハーレムや仲間には、そのような権力の作用はない。当然、異世界系における奴隷によるハーレムは、そのような権力を超越した関係性を築き上げてはいくが、男が主人で女性が奴隷といういかにもな構図がある限り、正当な超越を期待するのは難しいだろう。いくら権力を超越した関係性を構築したとしても、主人と奴隷という関係は「多数の女を囲う男」という構図の裏返しに過ぎないからである。

④まとめ

とりとめもなくなってきたのでまとめてみる。
「主人公の優位性の有無」、「虚構性の強い異世界」、「ハーレム、あるいは仲間を作るか」という三点で見た場合、『盾の勇者』は優位性を排し、主人公をある種の現実に置くことで虚構性が強い異世界系的な虚構を非難し、ハーレムや仲間を別のベクトルで構築しようとしている傾向があるように見える。
この点を見ると、『盾の勇者』は王道の異世界系を歩みつつも、ところどころでテンプレートから脱しようとしている気配がある。むしろ、部分的にアンチ異世界系のニュアンスすら感じさせる。

ただ、『盾の勇者』を脱異世界系と捉えることは難しいだろう。『盾の勇者』はところどころに異世界系に対する批判を忍ばせてはいるが、それは異世界系を価値転倒したり、脱構築して再構築するようなものではなく、単純に真正面から対立しているだけのような感じがする。
つまり虚構性が強い異世界系に対し、「現実」を持ち込むことで批判しようとしている。具体的にいうなら、異世界系的な虚構に生きる他の3人に対し、異世界系の王道から外れ、虚構ではなく現実を生きるはめになったナオフミが拮抗していくという構図だ。
でも、これは芸がない。虚構に対して「これが現実だ」と見せつけるのは正直安直すぎる。それはディズニーランドを楽しむ観客に「ここは現実なんだよ!」というのと同じだ。そんな行為に意味はない。異世界系はある意味、虚構であることを織り込んだうえで楽しむジャンルであり、そこに現実を持ち込んで暴れても、それは異世界系のように、現実の優位性を利用しているだけに過ぎない。(そもそも虚構に持ち込む現実が果たして本物の現実なのかおいう問いもあるが、これはかなり込み入った話になるのでここはやらない)
いうなれば、『盾の勇者』はアンチ異世界系の視点を組み込んだ異世界系に過ぎず、その後の展開が王道の異世界系の展開を踏襲しているのであれば、スタートダッシュが違うだけの異世界系の作品として、同ジャンルの作品群の中に埋没していくだけだろう。

しかし、あくまでここで記したことは『盾の勇者』の第3話までの情報がベースなので、この先の展開次第で容易に覆されることもあるだろう。
もしかしたら、『盾の勇者』は見事に異世界系の価値転倒を成し遂げるかもしれない。
その期待は、ひとまず残しておこうと思う。

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5.
2018/05/24 「たぶらかし:「ヲタクに恋は難しい」と「3D彼女」」
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何となくネットニュースを見ていたらこんな記事があったのでこれに便乗して書いてみる。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180524-00010007-realsound-ent

両方ともたまたま見ていた(一部流し見だが)アニメなので自分でもちょっと比較をしてみたい。
ただ前提条件が引用した記事と違うのでそこは明確にしておく。

①上記の記事は「ヲタクに恋は難しい(以下『ヲタ恋』)」「3D彼女(以下『3D』)」、「ネト充のススメ」の3作品を比較しているが、個人的に「ネト充のすすめ」に登場するようなゲーム廃人と前者二作品に登場するヲタクは似て非なるものと捉えているため、比較対象には含めない。よって「ヲタ恋」と「3D」の二作品の比較に留める。

②この比較によって二作品に優劣をつける意図はない。ただ主観的基準・嗜好に則った好き嫌いの区別だけはつける。

③この比較はあくまで「ヲタク」の扱われ方に焦点をあてるものであり、恋愛云々にはあまり触れない。

④原作に関してもあまり触れない。「ヲタ恋」に関してはコンビニで立ち読みしたことはあるレベルの知識。あくまでアニメで見た範囲内で語る。

上記の前提を明確にしたうえで以下本題。

まず「ヲタ恋」と「3D」において共通しているのはヲタクという要素が物語の中心にある。そして両作品ともヲタクをネガティブな要素として扱っている点である。実際「ヲタ恋」の主人公である成海は「ヲタクはキモい」と自分の事を棚に上げて発言していたり、「3D」に関しては筒井が陰口を叩かれる原因となっている。いってしまえば「ヲタク」=欠点として扱っている。

しかし同じ欠点と言っても、「ヲタ恋」と「3D」での欠点としてのヲタクのメカニズムはかなり異なっている。

「ヲタ恋」ではヲタクはある種の趣味人として描かれている。作中では同人誌を作る、グッズを集める、興味のある作品を買いあさる、コスプレをする、イベントに参加するなど一般的にイメージされるヲタクの生態が描かれており、ただアニメや漫画、ゲームに詳しいだけでなくこういった「行為」することにより趣味に没頭している人がヲタクとして扱われている。
そんなヲタクが欠点として扱われている所以はその趣味の「濃さ」だろう。一般的な水準とかけ離れた趣味(作中におけるBLなど)を持っていることがこの作品におけるヲタクの欠点である。言うなれば「周囲の理解が得がたい」という点が欠点なのである。

対して「3D彼女」におけるヲタクは筒井と伊東、綾戸が該当するが、その描かれ方は「ヲタ恋」と比べるとシンプルなものだ。アニメについて話す、アニメ雑誌を読む、ゲームをするなどヲタクらしい行為はあるものの、「ヲタ恋」と比べるとその行為に具体性がやや欠けている。いってしまえば「ヲタクがやっていそう」というテンプレートをなぞっているだけだ。「ヲタ恋」での行為もテンプレートといえばテンプレートだが、行為ごとに内包されているキャラクターの感情が明確に描写されており、しっかり「趣味」として描かれている。
いってしまえば「3D」でのヲタクは趣味人や嗜好(あるいは志向)の象徴ではなく、あくまでキャラ付けの一種だといえる。「3D」で登場するヲタクが内向的であったり、周囲から孤立していているなど人間関係や人間性に共通した傾向を持っていることを踏まえると、3Dでの「ヲタク」は「内向的、あるいは周囲から孤立した結果閉塞的な人間性」であることのメタだと捉えることができる。ややネガティブに表現するならレッテルだ。
とりわけ「3D」でのヲタクがメタ的な力を発揮した例といえば筒井が高梨にロリコン疑惑をかけられた事件である。あれはまさにヲタク=ロリコンという宮崎勤的な、一昔前の連想が見事に発揮された例だといえるだろう。
無論、「3D」における人間性のメタとしてのヲタクはレッテル貼りの域を出ないものではある。しかし特定の人間性のキャラクターに作者がヲタクというキャラ付けをしている段階で、作品全体が特定の人間性に対してヲタクというレッテル貼りをしてしまっている。そして筒井達の課せられたミッションはキャンプなど非ヲタク的イベントや人間関係のトラブルの調整を通じて「ヲタク」という人間性のレッテル貼りを脱却していくことであり、このミッションはある意味「ヲタクであることの否定」に繋がっているといえる。
つまりネガティブなイメージとして機能しているヲタクを脱却する過程ということだ。

一度話をまとめると「ヲタ恋」におけるヲタクは「濃すぎる趣味人」であり、「3D」のヲタクは「特定の人間性のメタ」という違いがある。
以上のことを踏まえたうえで、この後は個人的な好き嫌いの話に移っていきたい。

先に結論を言ってしまうなら、ヲタクという要素を描いている作品としてどちらかを取れと言われたら、間違いなく「ヲタ恋」を取る。
作品の質どうこうよりも、そもそも「ヲタク」に対する扱いにおいて「ヲタ恋」の方が圧倒的に良識的だからだ。リアリティの差異を差し引いても、ヲタクという題材を描き方は圧倒的に「ヲタ恋」の方が具体性もあって良識的である。

無論「ヲタ恋」にせよ、「3D」にせよヲタクをネガティブな要素として扱っている。しかし前者が「人に知られたくない秘め事」として扱っているのに対し、後者は「人間性のメタ」として扱っている。つまり「3D」ではヲタクという在り方が人間性と紐づけられており、ある意味では規定している。
もちろん「3D」で登場するキャラクター達は連想されるようなテンプレート的ヲタク像と完全に合致しているわけではない。キャラクターとしての独自の魅力もある。
しかし「自分の趣味を認め、受け入れてくれる」人を求め、デートの際にヲタクに関連したイベントに参加するなどのびのびとヲタクを全うしている「ヲタ恋」に対し、キャンプなど非ヲタク的な行為をイベントして盛り込み「孤立しがちな人間性を示すヲタクというレッテルからの脱却」と捉え得るプロセスが描かれている「3D」を比べると、さすがに前者を取らざるを得ないだろう。
「3D」は「ヲタクであることを受け入れてもらう」が主軸となっている「ヲタ恋」と違い、ヲタクという在り方の人間が非ヲタ的な行為を通じて周囲の人間と仲良くなることで婉曲的にヲタクという人間性へのレッテルから脱却するような構図になっている。言ってしまえば「ヲタクらしくあること」の否定が物語の構造に取り込まれている。

これはどうだろうか。
当然3Dのキャラクター達は筒井達「ヲタク」が根暗だったり、ロリコンであるという連想を否定していく。作者もヲタクを嫌悪しているわけではないのだろう。しかし、作者がヲタクをキャラ付けに利用している段階でやっていることは作中でレッテル貼りをしている連中と同じであり、脱却すべき人間性のメタとしてヲタクが使われているのは正直どうかと思う。ヲタクという在り方によって人間性が規定されることは有り得ないのだが、特定の共通項を持つキャラクターのキャラ付けのためにヲタクという在り方が使われている。この行為は例えるなら「官僚=税金を貪る悪人」というレッテルを貼り付けて実際の官僚の人間性をしっかり見ようとしない行動と一緒だ。しかも勝手にヲタクを人間性のメタ(レッテル)として使っておきながら脱却すべきものとして扱うのは流石に勝手が過ぎる。ヲタクを脱却すべきネガティブな人間性のメタとして扱っている段階で、ヲタクという在り方を忌むべきものとして否定してしまっているからだ。

第一「3D」は宮崎勤的な連想を平然と盛り込んでいる段階で「3D」のヲタクへの感覚は、ヲタクへのイメージが変わっている現在とギャップがある。
ただ、「3D」は連載開始が2011年であり、「ヲタ恋」より3年早い。この差がヲタクに対する感覚の差と直結しているとみる事は出来るだろう。「3D」の方が感覚が古いのはやむを得ないものである。
それでもアニメ化されたのは2018年だ。それも両者とも同じクールで放送されている。2018年という時代において、どちらがマッチしているかは一目瞭然と言わざるを得ない。

誤解のないように書いておくなら、個人的に好きになれないのはヲタク=人間性のメタという構図であり、別段「3D」がヲタクそのものを貶めていると言いたいわけではない。ヲタクという言葉を人間性のレッテル貼りに使っているという古さがどうにも受け入れられないだけである。そしてヲタクという在り方から想像されるテンプレート的な人間性を個人の成長において脱却すべき対象として見ている点が気持ち悪いことである。
「3D」がヲタクをピックアップせず、ただ周囲から孤立してしまいがちな人間性を持つキャラクターのふれあいを描いていたならいいだろう。ただその「周囲から孤立してしまいがちな人間性」を持つキャラクターにヲタクという在り方を象徴として使っているのがよろしくないのだ。
いくらシナリオにヲタクを否定する意図はなくとも、結果的にその構造がヲタクを否定的に扱っているという結論を導いてしまっている。

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